---本編スタート♪---
会津武士道 第三部 明治維新と会津武士道
其の五
八月十八日の政変
事の発端は、長州と薩摩による公卿の買収工作合戦でした。。。
長州は倒幕に向けて公卿を買収工作をしていました。薩摩は佐幕・・・ではなく、自らの政治的主導権確保のために買収工作をしていました。
玉(ぎょく)、つまり朝廷を手中にしてしまえば、政治的主導権を握れるというのが彼らの考えでありました。
会津藩が京に来たとき、ほとんどの公卿は抱きこまれており会津藩に買収工作をする余地はなかったこともありますが、会津藩は一貫して「策を用いてはならぬ」という容保公の姿勢を守り、
なんと!会津派公卿を一人も作らなかった!!
なんという純粋な。。。愚直という言葉が陳腐に思えるほどの爽やかさ
会津は、朝廷と幕府の下にある、この謙虚な立ち位置を貫いたわけです
しかし、長州藩による公卿抱きこみはちゃくちゃくと進み、朝廷内はかつてないほど不穏な空気に包まれました
そしてついに、、、長州が動きました
孝明天皇が大和に行幸し、そこで攘夷を祈る。そこで勅許が出て倒幕の狼煙を上げる
そんな計画をぶち上げました。。。
天皇は、周囲の圧力に抗う事が出来ませんでした。元々攘夷論者であった天皇ですからね。
そしてこれが本決まりとなったとき、今度は薩摩が動き出します。
薩摩は会津に協力を求め、会津はこれに応じ、
8月18日深夜、薩摩と会津は先手をうって中川宮を通じ天皇に翻意を促します。しかし、なかなか天皇の腰が上がらない。どうやら薩摩に対し不信を抱いているようでした。しかしついに、朝方まで及んだ説得工作により天皇が決断します。
攘夷派公卿七人を都から追放し、長州藩の御門警備を免じました!!
警備に現れた長州藩は仰天しました。自分たちが警備する門にすでに他の警備隊が陣取っているからです。これに激昂した長州によって一触即発の事態になりましたが、逆賊になることを恐れた長州藩は兵を引かざるを得なくなり、
クーデターは武力衝突なく見事に成功しました。
これを孝明天皇は非常に喜ばれたようです。
10月9日、その思いを宸翰にしたためて容保に渡しました。容保の忠誠を褒めた一級史料です。そして、渡した箱の中に二首の和歌が入っていました。一首ご紹介しましょう
詞書
たやすからざる世に武士の忠誠のこころをよろこびてよめる
和らくも たけき心も相生の
まつの落葉の あらす栄へむ
(やわらくも たけきこころもあいおいの まつのおちばの あらすさかえむ)
公家と武家による公武合体が実現できました。会津松平家がいつまでも栄えますように。
という歌です。。。
容保公、このとき涙を禁じえませんでした。。。
余談ですが、
明治維新後、この事件を会津による天皇をそそのかしたクーデターとした明治政府ですが、、、容保公が亡くなったときにこの御宸翰が発見され名誉は回復されました。。。
容保公はこの御宸翰をずっと筒に入れ首にぶら下げていたそうで、身体を清めるときに発見されたそうです。
つづく
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