---本編スタート♪---
さてさて、ではまったり始めましょうか^^
会津武士道 第三部 明治維新と会津武士道
その壱
時は
1853年(嘉永6年)6月3日
突如として浦賀に現れた
黒船、、、そう誰もが知ってるペリーの来航によって、歴史が大きく動き出・・・したわけではありませんw
すでに1800年あたりから外国船は頻繁に日本の領海に現れておりまして、幕府は1825年に
異国船打払令を出しておりました。つまりペリー以前に既に幕府は世界史の潮流を掴んではいたわけです。そして、ペリー来航も事前に察知していたのですが、さすがに圧倒的な軍事力の差を見せ付けられてしまい、
翌年には日米和親条約、ロシアやオランダとも和親条約を、そして1858年には日米修好通商条約を結ぶ事になります。これは主体性を欠いた不平等条約でした。
ここで中心的な役割を演じたのは誰あろう
大老井伊直弼ですが、彼の考えは
今ここで外国の要求を突っぱねて江戸を砲撃されれば日本は負け、植民地になってしまう。それでは幕府も天皇家も存続できない
というものでした。時の政府としての現実認識としては全く間違ってはいなかったのですが、
この時の天皇陛下である
孝明天皇はガチガチの攘夷(外国とは付き合わない)論者であったため、
井伊は天皇の勅許なく条約を決定していきました。
孝明天皇はこれに強い嫌悪感をあらわし、御三家水戸藩に勅書(水戸藩は尊王志向の強い藩)を送るなど幕府の屋台骨が揺らぎ出したわけです。
更に、将軍後継問題でも一橋慶喜を外すなど、井伊大老と水戸藩は決定的に険悪になっていきました。
さらにさらに、井伊は吉田松陰などの過激な攘夷論者を大粛清し攘夷派の怒りは沸点に到達しました。世に言う
安政の大獄であります!
そして。。。
1860年3月3日 雪降る江戸城桜田門外にて
井伊直弼暗殺される!
犯人は水戸藩と薩摩藩の浪士でした
これが世に言う
桜田門外の変でございます
さて、ここでやっと
会津藩が登場します。
なにせ、幕府と水戸藩という、言ってみれば兄弟みたいものがにらみ合っているわけですからお家の一大事。会津藩は秋月悌次郎を派遣し何とか穏便に水戸藩過激派を抑えました。
しかぁし!!
暗殺に成功し、しかも藩取り潰しにもならなかったため、攘夷派は益々勢い付いて行くことになります。。。
確かに、テロに妥協した形になったことが原因ですが、、、身内であり御三家である水戸藩の反旗に対しこの時点でこの判断は、やむを得なかったとうちは思いますね。仮に水戸藩主徳川斉昭を処断したとしてもやはり禍根を残したでしょう。。。つまり、歴史の流れは誰にも止められなかった、、、そういうことだと思います。
そして、幕府は、大老頼みの政権運営を改め、
会津藩は京都守護職に就くことになるのですが、その話はまた次回w
つづくw
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