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会津武士道 第三部 明治維新と会津武士道
其の四
さてさて、京において会津藩は様々な政治的思惑に翻弄されました。幕府からは単なる軍事力として扱われましたし、朝廷においては攘夷派公卿の工作によって序盤から本当に苦労したそうです。
しかし、会津藩はこれを実力で見事に突破しました!
1863年(文久3年)二月
足利三代木像梟首事件が起きました。攘夷派が足利三代の木像の首を盗み川原にさらし首にしたのです。つまりこれは幕府も今にこうなるぞ!という
テロ予告デモンストレーションでした
実はこのとき会津の公用方の一人大庭恭平は攘夷派とともにこの事件を起こしたのです!その後の経緯を考えると彼はスパイとして攘夷派にもぐりこんでいたようです。
この事件を会津藩は「幕府だけでなく朝廷をも侮辱する行為」と捉えて首謀者をひっとらえます。そしてこの事件を境に会津藩は京における主体性を大きくしました
会津藩は京を守護するにあたって、
開国であれ攘夷であれ国を思う言論についてはこれを認める。ただしテロは許さない
という方針を打ち出しました。これを言路洞開といいます。
まさに現代における言論の自由ですね。さすがです^^
と同時に、田中玄宰によって改革された軍編成を用いて什人一組の治安警備に当たりました。
そして、京の治安は回復し、町人たちから絶大な信頼を得たようです。ちなみに、会津の人が京都に旅行に行くと大変な歓待を受ける事があるのですが、これはこのときの会津藩の活躍によるものだと言われています。
くれぐれも、会津人は京都で恥ずかしい行動をとらないように!!w
この治安は半年間続き、孝明天皇からも信頼されていました。ある日、天皇が会津藩の調練を見たい、ということになり、容保公は純緋の陣羽織を羽織って1千名の藩兵による追い鳥狩り
天覧の馬揃えを行いました。
幕府を支え、朝廷を守る
藩祖保科正之以来の
尊王佐幕を実現出来た容保公の心中はきっと晴れやかなものだったでしょう
好評につきアンコールがかかり、なんと2度行われたそうですw
しかし!!
ついに!倒幕の炎は燃え上がります!!!
天覧の馬揃えから間もなく、長州藩が倒幕運動を起こすために計略を計ってきました!!これを阻止すべく薩摩と会津も動きます!!
世に言う
八月十八日の政変です!!
つづくw
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