---本編スタート♪---
会津武士道 第三部 明治維新と会津武士道
其の参
尊皇攘夷・・・
ありえない理想、、、実現する気もない理想、、、これを大義というのは無理がありすぎです。歴史学者は、当時の国内はほぼ「攘夷」論であった、なんてウソをつくわけです。悪いけどそれはアリエナイw
当時の日本人に、ほんとの本気で、欧米列強の船を打ち払って外国の干渉を排除する、なんてことを考えていた人は誰もいませんでした。
攘夷派最右翼の吉田松陰は、
ゆるやかに開国しつつ軍備を整えて異国と対等に向き合うべし、という主張でした。頭のいい攘夷派はみんなこんな感じでしたね。というか、実際問題日本にはその時点で外国を打ち払う軍事力がないのですから、それでも打ち払え!て言うのは扇動にすぎないわけですね^^;
で、
それって実は幕府の方針と一緒なわけですねはい^^;
尊王というのも、実際にはちょっとおかしい。尊王=王政復古なわけですが、復古するような王政がそもそも日本にはないわけですw天皇が政事の実権を握っていたのは日本の歴史においてもほんのわずかな期間ですし、それにしても実際には天皇が直接政策を全て取り仕切っていた、ということはなかったはずです。
そもそも、尊皇攘夷派は自分たちで作った勅命を持っていって天皇に許可を貰う、というスタイルですから、これのどこが王政復古だよw
前置きが長くなりました。。。
つまり、
尊王でも攘夷でもない尊皇攘夷過激派が京でテロを行って朝廷の方針を攘夷一色にしようとしてるわけですから、とんでもないやつらです^^;
はっきりいって、安政の大獄に対する報復という私怨であり、調子に乗って倒幕に動いている、と言われても仕方のないことでした
こんなところへ東北から治安に向かうわけですから、会津藩の心労はタイヘンなものだったでしょう^^;
しかしここで
会津藩は知恵を絞って任務にあたります
まず、京へ行く前に、
可能な限り攘夷派との妥協を図るよう幕府にはたらきかけました。どちらも旗は降ろせない、ならば政治的に現実的なところで妥協できるところはお互い妥協して行くべきだ、と主張しました。
それが孝明天皇の耳に入り、天皇はとても喜んだそうです。そしてそのものが京に来る、と聞いて、とても強い期待の目を向けたそうです。
12月、京へは、1千名の藩兵を連れて行きました。京の人達の度肝を抜く整然とした軍だったそうです。このとき、将軍家茂、慶喜、春嶽も京入りしました。家茂、慶喜は天皇の強い意思に落ち込み帰国したそうです。
明けて正月、新年を祝うために容保公が参内となりました。
ここで天皇は容保をたいそう気に入り、「これを戦抱か直垂としなさい」と言って
純緋の衣を下賜されました。容保はいたく感激し、さっそくこの衣で自身の
陣羽織をつくりました
このとき多分30歳くらいの写真と思われます
えっと、、、白黒でよくわかんねーよ!!
というオチで(@_@;
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