---本編スタート♪---
会津武士道 第三部 明治維新と会津武士道
其の弐
会津藩主松平容保(かたもり)公は深く悩んでいました・・・
幕府は、それまでの老中や大老による政権運営を改める事にしました。なぜかというとですね、この老中というのは譜代の「小」大名を任命する事が慣例となっていたわけですよ。治世ならばそのほうがうまくいったんでしょうが、さすがにこのご時世でそれは幕府自体が持たない、と判断したわけですね
そして、将軍家茂(いえもち)が15歳ということもあり、朝廷の働きかけもあって、新たに
将軍後見職
政事総裁職
そしてそして、
京都守護職
というポストを作ったわけです。
将軍後見職は、水戸藩出身で家康の再来とまで言われた
一橋慶喜(よしのぶ)
政事総裁職は、
前越前福井藩藩主
松平春嶽(しゅんがく)
と、ここまではうまく収まったんですが、京都守護職には松平容保に就任要請を出したものの、、、会津藩家中では大反対が続出したわけですね^^;
なぜか!
桜田門外の変において、尊皇攘夷過激派は武力を持って相手を脅せばこちらの意見が通る、と自分に都合の良い解釈をしたんですよ、つまり幕府はテロに屈した!そう勝手に思い込んだわけです^^;
そんなテロリストたちが、京において安政の大獄に加担したものや幕府側公卿の家臣などを暗殺する、という暴挙に出たために京の治安が非常に悪くなっていたからなんですね。
おまけに、地理的条件から考えても、京と会津は遠すぎる、、、それが家中ならびに容保公の一致した考えでした。。。
そんなわけで容保公は、一旦は辞退したわけです。
そこに登場したのが政事総裁職に就いた
前越前福井藩主松平春嶽でした(しつこいようですが
前越前福井藩主)。彼は、土津公つまり藩祖保科正之の名前を出して、更に涙を流してお願いする、、などというわざとらしぃ~~書簡まで送り説得工作を行ったわけです。
容保公からすれば、藩祖まで出されたのでは厳しい家訓もありますからそうそうは断れないわけです。しかし家中は大反対。
しかし、、、彼は、腹をくくりました。
宗家と盛衰存亡をともにすべしという正之公の遺訓を守るべく、自分は決心したが、君臣一致せねばこの重任は果たせないであろうから、よく審議して余の進退のことを考えて欲しい
このように家臣に語りました。
これを聞いた家臣は、容保公の覚悟の強さを感じ、胸を打たれました。
他日のことなど、とやかく論じるべきときではない。京都守護職をお受けし、君臣もろとも京の地を死に場所にしよう
こうして、松平容保公は京都守護職に就任したわけであります。春嶽がすでに幕府を見限り始めていたとも知らずに。。。
つづく
※ 水色のとこは修正PR