---本編スタート♪---
会津武士道 第三部 明治維新と会津武士道
其の七
八月十八日の政変、池田屋事件によって、会津藩は朝廷内で非常に高い評価を得ました。特に孝明天皇からは絶大な信頼を得たのでした。
しかし、裏腹に、長州や攘夷を掲げる藩のみならず、、、幕府からも警戒されるようになってしまいました。。。これらの感覚は、
会津に玉を取られた(天皇をそばに置く、つまり朝廷における主導権)
というものでした。。。
なんという情けない発想でしょうか。。。確かにこの時期長州や薩摩などは特に玉を奪う、ということを第一義に考えていました。だから逆に天皇陛下に好かれた会津にしてやられた、と思ったのでしょう。幕府もしかり
悪いけど、会津藩は、、松平容保公は、そんなことひとっっっつも考えていませんでした
容保公は、日本という国の一番トップである天皇陛下及び朝廷、それを補佐する幕府、そして朝廷と幕府の下にある会津藩として、ただただおのれの身分をわきまえ朝廷と幕府のために粉骨砕身働いたのでした。これこそが正に
武士道である、と断言してもよいでしょう。
ところが残念ながら世間はそう見なかったわけです。あろうことか、幕府は京都守護職の対価としての財政援助を打ち切るなどの嫌がらせまでしてきました。
ここで、いわゆる歴史学者はこう言うわけです。
政治というのはドロドロとした暗闘なのであって、会津は清廉すぎた
ならば、現代政治で自民党が姑息なことしてるのに文句言うなよw
とからかってあげたくなりますがやめておきましょうw
ともあれ、事実とは関係なく、会津はなんとなく横暴なイメージが世間に浸透していきました。。。
そして、玉を取られて怒り心頭の長州藩の過激派が藩を突き上げて、、、ついに長州藩は上洛を目指して兵を動かしました。
禁門の変です
そして続くw
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