みなさんおは~^^
頑張ってムズカシイこと書いてるのに書いてるのにカイテルノニィ!!メガてりやきにばかりコメントがつくのは仕様ですかそうですかOrz
先日、ロハンでばったり湯~くんに会いましてw SS撮り忘れたと思ってたら間違ってF11押してたようでSSありましたw晒しとこww
ロハンについて色々聞かれても、、、うち自身があまり知らない罠w
とりあえず、また二刀なのねwって言われました・・・Orz
---本編スタート♪---
会津武士道 第三部 明治維新と会津武士道
其の九
西郷どんは、勝海舟~坂本竜馬のつてで長州に接近し、秘密裏に薩摩と長州は同盟を結びました。これを
薩長同盟と呼びます。
馬関戦争でボロクソに負けた長州藩は、攘夷を実行したのは幕府の責任である(慶喜は孝明天皇に攘夷を確約されていた)として賠償金を幕府に押し付け、あろうことか当事国であるイギリスから武器を輸入し始めました。どんな攘夷だ(--;
しかし、先に行われた薩英戦争など、
薩摩長州は外国と一戦交えて外国の脅威や最新式の軍備に触れることができたわけですね。これによりいち早く軍の改革に乗り出せるわけでございます
だからといって、幕府にこれをやれというのは酷でしょう(--;
ここらへんをポチとか言われると、どうなのよ?って思いますけどねぇ。国対国のガチになったら落としどころも難しくなって撃退できるか植民地まっしぐらか、、、のるかそるかワカランわけで勿論やってみなきゃわからんじゃないか!と言う意見もありましょうが、あたしはふつーに「自分に当時慎重だった幕府を責める資格があるとは思えない」という結論です
そんな中、
第二次征長戦が開始されるわけですが、
まず薩摩が出兵を拒否、他藩からも反対意見が続出します。会津藩は孝明天皇が手放さず参戦できませんでした。
それでも総大将となった一橋慶喜は「たとえ一兵になっても長州を攻めるべし!」と断固たる決意でした。。。
しかし、参戦した藩には色々な思惑があり、、、長州藩に対する同情や、威信失墜の幕府を見限っている藩や、財政的に苦しく戦争そのものに反対する藩、、、などなどまったく士気が上がらなかったそうです
一方長州は最新式の兵器の導入や過激派のイケイケで士気が天を衝く勢い
こんな状況を潜入捜査していた近藤勇が会津藩に報告しています。。。
そして慶応二年(1866)6月、ついに開戦したわけですが、幕府軍は連戦連敗を喫します。なんと小倉城まで落とされる始末でした
続く七月に、なんと将軍家茂が失意のうちに病没!!!
将軍という精神的支柱を失った幕府軍に危機感を覚えた慶喜はすぐさま勝海舟を長州に送って停戦調停に入りました。そしてその裏では、朝廷に働きかけ停戦の勅を出させました。。。
威信が地に落ちただけでなく、、、ついに征夷大将軍という仕事すら放棄する形になってしまった江戸幕府。。。さすがに多くの藩から見限られ、幕府そのものの存在に対し疑問が出てきたのでした
慶喜は家督を継ぎ将軍職につきましたが、
12月、なんと孝明天皇崩御!!!
ここに公武合体の夢はもろくも崩れてしまったのでした。。。
つづく
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