---本編スタート♪---
会津武士道 第三部 明治維新と会津武士道
其の八
禁門の変・・・最激戦区となった蛤門を差して蛤御門の変ともいいますね
長州藩はついに玉の奪回に向けて京へ兵を送り込みました。久坂玄瑞(くさかげんずい)などの吉田松陰門下生の過激派などがいました。
元治元年(1864)7月19日
三隊に分かれ長州藩は京の御所を目指しました。戦闘は午前三時ごろ暗闇から開始されました。
これを会津、薩摩、桑名が懸命に守り、各個撃破していきました。特に会津藩が守っていた蛤門は大激戦となり、会津藩は30名を越える死傷者を出しました。会津だけでは守るだけで手一杯だったようですが、桑名、薩摩藩が加勢して午前八時ごろなんとか撃退する事が出来ました。
そして、そのころようやく到着した久坂玄瑞や真木和泉ら数百の兵は、堺町門の鷹司邸から砲撃を行いましたが、会津藩は大砲をぶちこんで迎撃したそうです。
久坂はそこで自刃、、、真木は天王山まで逃げましたが、会津藩による追討で逃げられないと悟り自刃したそうです。。。
ここに、長州藩は大敗北を喫しました。
そして、京の御所への発砲に怒り心頭の朝廷は、
7月23日にすぐさま長州追討の勅を下しました。
ところが!!!
肝心の幕府の足並みが揃わない!!
将軍家茂は上洛する、と言っておきながらいつまでたっても上洛の気配なし。。。慶喜、容保らは再三上洛を要請しました。特に容保公にとっては幕府の威信回復に将軍の上洛は絶対必須と見ていたため何度も使者を送ったのですが、結局将軍の上洛は果たされませんでした。。。
幕府にとっては、長州藩のことは対岸の火事という見方があったのと、一会桑(一橋慶喜、会津、桑名)は朝廷を牛耳って幕府にたてつく獅子身中の虫とみなしていたこと、こんなことから嫌がらせとも取れるような行動に出たのでした。。。再三の上洛要請も身分をわきまえない失礼な態度と見ていたようです
しかし、そんな状態の幕府ではあったものの、対する長州は、8月に
馬関戦争が起き、イギリスフランスアメリカオランダ四ヶ国連合によりこてんぱんにやられていたため、過激派は実権を失い穏健派が台頭してきました。。。
そんな折、、、
幕府の幕臣中の幕臣、勝海舟と西郷隆盛が会談を行っていました。。。
勝海舟といえば
元軍艦奉行、、、こいつが西郷どんに言ったのは幕府の脆弱性などなど。。。勝は幕府を見限っていました。これを聞いた
西郷どんは、驚くとともに、ついに自分の出番が回ってきたことに気付き、野心の炎をメラメラと燃やしたのでした
長州追討戦は11月と決まりましたが、西郷は何とか戦をせずに終わらせようと画策します。
馬関戦争によって過激派と穏健派の対立が大きくなっており、これを利用し穏健派が実権を奪取するとすぐさま動き、
・首謀者三家老の切腹
・都落ちし長州藩にいる公卿の他藩への移動
・山口城の廃城
これを条件にして戦の回避に成功しました。。。このときの西郷の活躍は目覚しく、ついに
薩摩藩は歴史の中心に躍り出たのでした。。。そしてそれは幕府の威信が地に落ちたということでもありました
さらに!!!!
事態はこれで収束しませんでした!!!
なんと、長州藩では過激派(正義派)が突如武装蜂起!!!そして、穏健派を打ち破って実権を奪い返してしまったのです!!!
そして再び幕府と長州の関係は悪化し、、、
慶応元年(1865)4月、幕府は再び長州征伐に乗り出しました。。。
悪夢の第二次征長戦へ・・・
つづく
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