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会津武士道 第三部 明治維新と会津武士道
其の拾
孝明天皇崩御には岩倉具視による毒殺説があります。岩倉具視は元は公武合体派であったものの幽閉中に倒幕派へと転向しており幼い明治天皇を担ぎ実権を握ろうとした、というのが論拠です。
ともあれ、孝明天皇は崩御し、公武合体の夢は費えました。。。
こうなると実質的に将軍職を放棄した形になった幕府にはすでに何の力もなく、倒幕の勢いは増すばかりです
長州・薩摩は倒幕の勅を出すため動きます。この時期の薩長の総指揮官である西郷隆盛は、京都の藩邸に1千名の兵を置き、宮廷内に働きかけ、倒幕の勅の作成を急かしました
幕府には、フランスと手を組んで再生すべし、という意見も出たのですが、勝海舟がこれを阻止する始末
そんな中、西郷の動きをあえて隠し、土佐藩前藩主山内容堂が幕府に対し大政奉還を建白
ここで土佐藩は、次の政権でも慶喜公に主導的な立場を取ってもらう、と甘言を弄しました。。。
徳川慶喜は、これを真に受けて、これに同意
慶応2年(1867)8月 明治天皇即位
10月13日 幕府が大政奉還を上表
同日、、、薩長両藩に倒幕の密勅が下る
密勅を受け、薩摩・長州が大兵を率いて上京
12月 9日 朝廷、王政復古を号令
10日 会津(京都守護職)・桑名(京都所司代)の京都守衛を免じる
12月12日 徳川慶喜、松平容保、松平定敬(桑名藩藩主)らが、大阪城に入城
さてさて、、、わが松平容保公の心中はいかばかりのものだったでしょう。。。
実は、孝明天皇崩御の際、京都守護職を辞しています。しかし、幕府によって慰留され、やむなく続ける事になりました。正直、容保公は将軍慶喜を信頼してはいなかったのですね。
しかし、儒教的世界観を持つ容保公にとって、親である将軍には逆らえませんでした。。。この、容保公の儒教的世界観は、彼の人生において何度も自身を悩ませ束縛したんですね。。。
これは、後の鳥羽伏見の戦いにおいても彼を決定的に束縛します
西郷どんは、勝算がたつまでは根回しのみで表では全く動きませんが勝機と見ると徹底して動きますね。これは敵ながらあっぱれという他ないでしょう^^;ただ、見る人によっては風見鶏に見えるし、自身が持つ思想や理想などはあっさり自分の野心の前にどうでもよくなる、という傾向は見えますね。
西郷どんは、多くの高邁な思想を語った人物だと思いますが、そうであればあるほど、野心が醜く見えるのは、うち個人の意見でしょうかね
徳川慶喜公については、、、人格自体が歴史のナゾですよねw
まぁ、うち個人的な結論は出してありますが、それはまたの機会に・・・w
では、、、次回は
鳥羽伏見の戦いへ!w
つづくw
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