みなさんこん~^^
28日に行われた
【K-1MAX】はご覧になられたでしょうか?^^
判定が多かったので、TV的にはどうかなという気もしましたが、試合は全般的によかったんじゃないかな?しかし、4強である魔裟斗、ブアカーオ、サワー、クラウスは順当に勝ちあがったもののそれぞれ課題も見えた気がしますね~。
一番あてにならないのはブアカーオ。動きだけ見てるとだいじょぶかいな?と思うんですが、強いやつと戦うと強くなるというわけのわからん才能がありますからねぇ(--;
しかし、ほんとにレベル高いわMAXwそれに体重が揃ってた方が見てて面白いよね~^^
イノキゲノム・・・どーでもいいですね、あーゆーのわw
で、本日の
ガンプラ
やっとここまで来ました^^b
まだコアファイターを作ってないのでAパーツとBパーツが繋がらずOrz
しかし、成型色でこのデキだもんなぁ。。。むかしは全部白かったんだけどねぇw
ふつーの人ならこれで色塗らずでもおk!て感じじゃないかな^^
---本編スタート♪---
会津武士道 第三部 明治維新と会津武士道
其の拾壱
さてさて、
新政府発足にあたって最大の課題は、、、そう、旧幕府(江戸藩だとなじみないのでこちらで)をどうやって潰すか、ということでした。
腐っても大大名の徳川家、全国に親藩があり、情勢によってはいつ大勢がひっくり返るかわからない。。。しかし、この時点で徳川慶喜は新政府と戦うつもりはありませんでした。
勿論、ごり押しで江戸に兵を向ければ他藩の反発を買うのは必定。。。
そこで西郷隆盛は、江戸において浪士に略奪や放火などのテロ行為をさせました。彼らはこれみよがしに薩摩藩邸に引き返して行ったそうです。そしてこれの取り締まりにあたった庄内藩の藩邸にも攻撃を仕掛け、ついに幕府も捨て置けず薩摩藩邸を焼き払ったのです。
さぁ、こうなるともう決戦は避けられない情勢に!
ついに徳川慶喜も腹をくくり、、開戦を決意しました!
慶応4年(1868)1月3日 鳥羽伏見の戦い勃発
倒薩の表を掲げ、京への上洛を目指し旧幕府軍は進軍を開始しました。まんまと西郷隆盛の術中にハマってしまったわけです
兵力差は倍近くありましたが、最新装備の新政府軍の前に惨敗を喫します。淀城に退却するも城から発砲されました。。。淀藩はすでに寝返っていたのです。。。そこで総崩れとなってほうほうの体で大阪城に逃げ帰りました。。。このとき、新政府軍には
錦の御旗が翻っていたそうです
とはいっても、まだまだ兵を温存している旧幕府軍でしたから、大阪城では主戦論が大勢を占めていました。が、会津藩家老神保修理は「今こそ謹慎すべき」と強く主張したそうです。
そして、、、6日夜。。。
密かに慶喜は、桑名藩主松平定敬、そして会津藩主松平容保を引き連れて陣を離れ船に乗って海に出て米国海軍に拾われた後、開陽丸に乗り込んで、江戸へ戻ってしまいました!!
なんと!天下の大将軍(元w)が、兵たちを置き去りにしてとっとと江戸へ逃げてしまったのです!
これによって多くの藩は旧幕府を完全に見限り、新政府軍に寝返りました
さてさて、、、
明治維新最大の謎、なぜ松平容保は慶喜についていって江戸まで逃げちゃったのか!!??
これについては、ほとんどの歴史家は軽くスルーしてますw(--;
簡単に分けると、理由はどうあれ逃げたという事実はあるのだから卑怯であり破廉恥、もしくは慶喜に拉致されてしまった、という説ですね
しかし、うちはどちらも腑に落ちない。。。
前者は理由を放棄してるので真相が見えてこないし、後者は拉致できる状況じゃない。。。
うちの考えでは、、、
はじめは江戸へ帰るなんて分からなかったそうですから、何事かも分からずついっていったのでしょう。そしたら船に乗っちゃうもんだから、さすがにこれはどーゆーこと??と詰問したでしょう。慶喜は「江戸へ帰るw」とでも言ったでしょうね。(wがあったかはシリマセンw
そしたらさすがの容保公も、即刻戻るべし!と言うに決まってます。
ここまではダレが考えたってこうなると分かるわけです
そしたらそこで慶喜はどんな態度を取ったのか。。。
ズバリ!!
キレちゃいました(--;
これは「会津戊辰戦史」にて容保公が回想しています。
で、じゃぁそこで容保公はどう思ったのか
親筋にあたる慶喜公が今目の前でキレている。。。落胆もあったでしょうが、、もうそれ以上強い態度には出れない。。。これが本音ではないかなと思います
絶対と信じていた自分の親が今目の前でなりふり構わずキレて我侭を言っているわけです。うちなら親に意見などできませんね。もうそんな親を認めるしかない。。。
特に親を絶対とする儒教に縛られていた容保公は、これ以上親に意見など出来るはずがない
理由なんぞどうでもいい、なんていうのは、容保公に対する最大限の侮辱でしょう。はっきりいってわからないことを誤魔化そうとしてるようにしか思えない。
拉致されたなんてとんでもない。ついていった人数を考えれば、容保公が拉致されるわけない。
そして当然、「じゃ、一緒に逃げちゃおっかw」などと言うはずもない。
そう、彼の人生は儒教とともにあるのです。。。
つづく
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