---本編スタート♪---
会津武士道 第三部 明治維新と会津武士道
其の十参
会津藩は、今後の方針を
武備恭順と決めました
出来る限り戦争回避にむけ行動する、しかしどうしても回避できないのならば、命を賭して一矢報いる
そう決めたのです
この背景には、多分許されないだろうという観測が強くあったものと思われますね。だから、まず戦いは覚悟する、こうして腹を据えたのです
またしてもバカにして悪いんだけど、後世の歴史家がバカだなと思うのは、
会津藩は、表向き恭順の姿勢を見せながら裏では武備に努めた
こんなバカげたことを言うからです^^;
出来る限り戦争を回避する、回避できなかった場合を想定して武備に努める
と
表向き恭順の姿勢を見せながら裏では武備に努める
これ、似てるけど、全っ然違うの、わかりますよね?(^-^;
え?ワカンナイ?いや、ワカルヨネw
えっとね、後者は
【何故】武備に努めるか、ということです。
この文章をキチンとした国語力で読めば、
表向き恭順の姿勢を見せながら
【いずれきたる反抗作戦のために】武備に勤める
と、こうならなくてはいけません。決して
【会津防衛のために】とはなりませんw
なんでかって?
それは、藩は藩防衛のための軍備を許されているからですよ。なので、防衛のための武備は全然裏にならないわけw
文脈的に、表の恭順姿勢に対して、それを裏切るように武備に努める必要があるわけで、会津防衛のための武備は恭順しようが何しようが全然関係なし。それは会津の自由
そんなことは、西郷どんだろうが木戸だろうが誰だろうがわかってるに決まってる
なので、表向き恭順しながら裏では武備に努めた
という表現はアリエマセン
したがって、会津藩は、
鳥羽伏見の戦いにて近代戦の脅威を理解したので恭順しつつも許されなかった場合を考慮して武備に努めた
でいいんです^^;
会津藩が本気で京に乗り込んで新政府軍を叩き潰そうと考えていたなら裏でうんぬん。。。ということも想定できますけど、、、この時点で奥羽列藩同盟もまだだし孤立無援の窮地でしたからね(--;
まぁ、、、どこぞの京に上って玉を取ろうだなんて本気で行動しちゃう藩とは違うわ!と、言っておきましょうか。。。
ここから歴史に戻ります
会津藩は、ありとあらゆるルートを用いて和平工作を行いました
慶応4年(1868)(のち明治元年)2月21日
会津藩は尾張や紀伊など二十二藩に和平への周旋を依頼しました。。。が、どの藩も救済に名乗りを上げる事はありませんでした
そんな中、隣藩の米沢藩が立ち上がり、朝廷への周旋に名乗りを上げてくれました。それとは別に仙台藩も米沢藩に協力する、ということになりました
米沢、仙台ともに学問において日本トップクラスの人材が集っていましたから、反抗の意思がない会津を攻めることは義に反する、という感覚があったようです
一方・・・
・・・・・
「幕府とはいったいなんだったのだ・・・」
長岡藩家老の天才軍略家、河合継之助(かわいつぎのすけ)は憤っていました。。。目の前にいる若者に対し、出来る限りの事はするから、といって慰めました
その若者こそ、
会津藩の若き俊才、梶原平馬(かじわらへいま)その人でした。平馬は会津藩家老内藤家の次男として生まれ、長男が家督を継ぎ平馬は名門梶原家を継ぎ藩に仕えていました
若くしてその才能を高く評価されこの大変な時期に外交の顔として米沢との交渉にも当たっていました
継之助は天才軍略家であると同時に義の人でありまた筋を通す人でありました。そういう人であったからこそ、会津の筋の通った行動を見、そして今目の前にいる才気あふれる若者を見て、何とか力を貸してあげようと思ったのでしょう
継之助と平馬は横浜へ行き、武器商人スネルから大量の武器を購入しました。これを函館経由で新潟へ運び陸揚げし、陸路長岡~会津へと送りました。3月9日、大量の武器を積んだ船が横浜港を出港しました
継之助は、スネルを口説き落として会津の軍事顧問にさせました。スネル兄は会津へ、弟は武器商会を開いたそうです
さらに継之助は、奥羽諸藩に使者を送って会津救済を訴えたのです
長岡藩家老 河井継之助
そんな動きの中、
3月19日に
九条道孝率いる奥羽鎮撫使が仙台に到着します
これは不穏な動きのある奥羽諸藩を牽制し、会津討伐を奥羽諸藩にさせようというものでした
さまざまな思惑を交錯させ、
戦いはまず言論戦が口火を切ったのです
つづく
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