みなさんこん~^^
昨日は、只見にある
河井継之助記念館に行ってまいりましたw
会津から大体車で2時間デス。。。疲れたOrz
一見してさっぱりわからないところにあるので、すっかりスルーしてしまって思わず只見町内まで^^;わかんなくなったので駅員に聞いたら「そこの信号を右に行って」というので指示通り行ったら、、、田子倉ダムへOrz
只見町駅の駅員にウソつかれた;;
結局地図を見ながら随分来た道を戻りましてw
たどり着きました!!><
えーーーこんなとこにーーー!?てな場所ですが、中はちょーキレイw
とりとめて新しいことは発見しませんでしたが、会津人なら一回はこここないとねぇ。。。館内で上映されてたビデオが立体地図と連動してたのが良く出来てました^^b
ちなみに、継之助。。。つぎのすけと読むかつぐのすけと読むか、これは定説がないそうです。一般的にはつぐのすけでいいそうですが、最近の本読むとつぎのすけが多いのよね~。つぎのすけを呼ぶ時なまってつぐのすけと言ってたんじゃないか??という仮説をたてて、マサやんに丸投げしときますw
で、こちらがまわりの風景をパチリ
継之助がここに辿りついたのが、旧暦で8月中旬ですから、新暦で10月初め。とすると、紅葉が始まる時期ですね。。。
---本編スタート♪---
会津武士道 第三部 明治維新と会津武士道
其の十四
慶応4年(1868)3月19日
奥羽鎮撫使が仙台に到着しました。総督に公卿である
九条道孝(くじょうみちたか)、下参謀に
世良修蔵(せらしゅうぞう、長州)と
大山格之助(おおやまかくのすけ、薩摩)。300名ほどの手勢を連れてきたようです
早速、米沢藩、仙台藩の重臣を呼び、会津の情勢を聴取しました
そして23日に「
会津を早々に討伐せよ」といって仙台藩に会津討伐の先陣を厳命しました
仙台、米沢両藩とも、会津藩には強い同情の念があり、なんとか戦争を回避する道はないか模索しました。京でテロを重ね幼い天皇を擁して官軍となった薩長が京の治安維持に努め幕府を補佐してきた会津を討伐する、ここに違和感を感じていたのでした。また、これから田植えの時期ということもあり(旧暦の3月は新暦の4月)、天候も芳しくないこの年に戦争はしたくないという領民を想ってのことでもありました
そこで仙台、米沢藩は、27日会津に使者を送り今後の対策を協議しました。。。
勿論、会津としては、戦争をできるならば回避したい。仙台、米沢藩という奥羽の雄藩が仲介してくれるなら説得出来る可能性は大きいわけですから、ここで会津は周旋救助を懇請しました
このとき、仙台、米沢の使者は会津に対し、どんなことがあっても暴発しないように、と釘をさしています。もし、会津に薩長討伐の野心があったならばこの両藩は会津の助命嘆願を行わなかったでしょう。それは長岡もしかり、でした。。。ただし、、、薩長主導の新政府に対して大きな不信感があったということは書き留めておかねばなりません
そして、米沢藩は仙台へ使者を送り和解を申し入れました
しかし、、、対応に当たった世良修蔵は激怒し、「
異議あれば米沢も同罪!」と申し入れを切り捨てました
仙台藩主・伊達慶邦は世良に会い会津謝罪の周旋を申し入れると、世良はまたしても激怒し、「
会津討伐の命を受けながら裏で和平工作とは何事か!」と言い、さらに「
会津降伏の条件は松平容保の斬首と会津城の開城」というとうてい無理な条件を出しました
一方で、仙台入りした兵らは城下町で粗暴な振る舞いをしていました。占領軍気分だったのでしょうね。。。酒をあおって藩士らに罵声を浴びせたり、婦女子に乱暴したりと好き放題でした。。。
竹に雀を袋に入れて 後においらの物とする
(竹に雀は仙台藩伊達家の家紋)
こんな狂歌を唄ったりしたそうです。。。
・・・・・
一方、
江戸にある会津藩邸に残った藩士らもまた、和平に向け動いておりました
会津にこの人あり、と言われた人格者で薩摩藩士らとも親交のあった
広沢安任(ひろさわやすとう)は、なんとか会津戦争を回避するために、西郷隆盛への直談判を行おうとしていました
旧知の薩摩藩士・海江田武治(かいえだたけはる)を通じて西郷に直談判を申し込み、そして大総督府へ出頭しました。。。
しかし、そこで
広沢は捕らえられ獄に繋がれました
西郷はこのようにして和平を握りつぶしました。。。
よく、西郷は元同盟相手の会津藩を攻める事に消極的であった、と言った説を唱える人がいますが果たしてどうでしょう。。。
つづく
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