みなさんこんにちは^^
台風が過ぎ去ると・・・・暑い!!!(@ロ@;
てかね、、もー今週は夏バテでして、、日記を書く気力もないOrz
そんななか、日記のネタにと渡されたファイルが一つ・・・
タニシン!!!???ニセモノ??www
いるかっちが子供と会社の夏祭りに行ってきまして、、、え~え~わたしはお留守番なわけですがね、、、タニシンのモノマネが来たそうで結構盛り上がったみたい^^
うちはおみやげの焼き鳥とタコヤキほおばり係です。。。
---本編スタート♪---
会津武士道 第三部 明治維新と会津武士道
其の十七
前回書いたところからですが、
奥羽鎮撫使の下参謀世良が秋田入りしている大山の元へ届けようとした密書、これが仙台藩の手に落ちたわけです。
その内容はというと、
奥羽は全て敵であるからこれを武力討伐すべし、自分は京へ上りこれを伝えそして大総督西郷隆盛にも伺いを立てる、仙台米沢両藩は弱藩だが会津と力を合わせると少々やっかいである
というものでした。。。
更に、
自分は明日(20日)出発して京へ行く、という記述がありました
これを見た仙台藩士は事が一刻の猶予もないことを知りました!もし世良が明日出発してしまい京に着き、仙台討伐の論をまくし立てれば取り返しのつかないことになってしまいます!
ここで仙台藩は腹をくくってすぐさま行動を開始します
閏4月20日午前二時ごろ、
姉歯武之進指揮のもと、白河の視察を追え本宮から福島へと北上して宿を取っていた世良を急襲!!世良は拳銃で抵抗するもうまく発砲できず捕らえられました!!!
すると、、、
なんと、
大山から世良にあてた密書までが見つかりました!
そこにはなんと!
仙台米沢両藩藩主を会津のカタがつくまで三年程度幽閉してしまおう、というトンデモないことが書かれていました!!
世良はその日のうちに糾問にあい、そして無残な形で
斬首されました。。。
そして、、閏4月22日、会津救済薩長糾弾のための奥羽列藩同盟が結成されました(会津、庄内は救済対象のため同盟には加わらず)
・・・・・
一方会津では、和平工作の失敗を聞きすぐさま行動に打って出ます。
12日の総督九条の態度と17日の世良の態度を聞き決断に至りました。。。
閏4月20日、会津藩は旧幕府軍と連動して奥羽の玄関口である
白河城を奪取!!
22日には奥羽列藩同盟による同盟軍が白河入りし、防御を固めました。
すると、25日にははやくも西軍(新政府軍、これより西軍で統一)が現れ白河城奪還作戦が展開されました!!(このことからも和平と戦、ぎりぎりのタイミングであったことがわかりますね
東軍(会津ならびに列藩同盟軍のち越後も加わる、これより東軍で統一)はこれを退け、会津戦争第一ラウンドは東軍の勝利によって開幕しました!!!
つづく
余談ですが、、、
世良のかたくなな態度には理由がありました。元々穏健派の人のつてで奇兵隊入りしており、その人(赤根武人)は過激派によって粛清され斬首されてしまい、その連座で世良も謹慎処分をくらっていたわけです。ところが戊辰戦争となって人材が足りなくなってきており、当初の予定であった奥羽鎮撫使が穏健派であったため過激な主張を通すために抜擢された、というわけです。
ですから、世良は命に代えても会津武力討伐を成し遂げなければならない、、、そんな理由があったのです。。。
思わぬところから歴史のキーパーソンとなった世良でしたが、その大役をこなすには器量が足りませんでした。本来交渉は相手と自分の意見が違う、これを前提としてどこで折り合うかを競うわけです。自分の意見だけが、、、通ると思ったのでしょうね。。。九条をうまく利用して西郷を封じることも可能だったのですが。。。
まぁ、結局は命に代えて会津武力討伐を決定付けたのは事実ですから、その意味では歴史に名を残した人物として、その一点だけは評価できると思います。故人の名誉にかけて。。。
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