---本編スタート♪---
会津武士道 第三部 明治維新と会津武士道
其の十八
長岡藩の手引きで新潟港から武器を陸あげし会津に運び込んでいれば必ずや主力が越後に現れる。そのとき直談判して戦争を止める
こう思っていた長岡藩家老
河井継之助の読みどおり、西軍主力はついに閏4月24日越後口三国峠に現れここで会津軍と小規模な戦闘を行いました(この後5月まで西軍勝利しつつ進軍
越後口の会津軍には、会津の鬼官兵衛こと佐川官兵衛がいまして、、、実は官兵衛と継之助はソリがあわなかったのですが、というのも徹底主戦論者である官兵衛は中立的立場にある長岡藩に対しどちらにつくのかはっきりしろ、と強く問い詰めていたわけです
まぁ、官兵衛は武の人ですから、政治的な部分を嫌ったのでしょうが、これに対して継之助はきっぱりと長岡藩から出て行け、とつっぱねております
出来れば戦争は回避する、、、そしておれなら出来る、、、そう思っていた継之助でした
・・・・・
一方、白河城攻防戦第一ラウンドをしのいだ東軍でしたが、戦力を補強した西軍はすぐさま襲い掛かってきました。
明けて5月1日、ついに白河城攻防戦第二ラウンドが開始されたのです!
このとき兵数では圧倒的に優位に立っていた東軍がものの見事に西軍にやられまして、最新装備を整えたとはいえさすがに一日の長がある西軍にこてんぱんに負かされました
指揮をとっていたのは会津藩の西郷頼母(たのも)でしたが、あまりの負けっぷりに自暴自棄になってしまったそうです。。。そして同じく会津藩の横山主税は戦死。なんともあっけない戦になってしまいました。。。
これにより奥羽の玄関口である白河城は西軍に占領され以降戦略拠点になったのであります
・・・・・
話はまた越後に戻ります。。。
長岡藩の蒼龍河井継之助はついに現れた西軍に対し、
直談判という手段に打って出ます!
なんと!!お供はたったの一人!!二見虎三郎と二人で小千谷へと向かいました!
そしてあの有名な
小千谷談判が行われたわけです
5月2日午後1時 慈眼寺にて
談判に訪れた継之助の前に現れたのは、山県有朋、、、ではなく軍艦の岩村精一郎でした(他3名)
ここで継之助は嘆願書を提出、長岡の藩論が定まらないため定まるまで待つか黙って素通りしてくれないか、というものでした。
これを聞き、岩村が激怒!東軍につくか西軍につくか今すぐ決めろ!と問い詰めました。このとき継之助は会津征討の理由を問いただしました。
真の官軍であれば言う事を聞く、という大胆発言も飛び出したようです。この対応に岩村では器量が足りませんでした。まぁ、写真を見ても分かるように、継之助は肝の据わった雄弁家ですからかないっこないわけですが(--;
ついに言葉を失った岩村がキレて、論じ合うというのならば戦場でやろうじゃないか、と言って席を立ってしまいました
このとき継之助は岩村の服の裾を掴んで、いまだ長岡藩の事情を説明し終わっていませんぞ、と言ったそうですが、聞く耳持たず。
こうして小千谷談判は
決裂しました
長岡に戻るとき、継之助は西軍兵士から罵倒を浴びたそうです。。。これ以上の屈辱はないでしょう、、、、ただ、、なんとなくだけど、半分はワクワクしてたんじゃないか、という気もしますが(--;
そして長岡藩は西軍と対立することが確定し、奥羽列藩同盟に名を連ねてついに奥羽越列藩同盟へとなっていくわけであります
つづく
なお、またまた余談ですが、、
小千谷談判にて、長岡を素通りしてくれ、と言ったのは、ちょっと気になりませんか?wうちはすごく気になりました。なぜかって、、わかった。じゃぁ素通りするわ、、と言われたらどうすんの?w
実はここに継之助の天才っぷりが発揮されてるんですが、、、歴史家ってほら、アホだから気付かないわけよ^^;
では、どうして素通りを嘆願したのでしょう。
これはですね、継之助はこれを言ったら絶対に了解しない、と踏んでいたからなんですね。
え?なんでって?
それは、まだ藩論定まらぬゆえってところなんですが、つまり素通りしてもいいけど後で東軍入りと決まったら後ろから襲い掛かるからねw、と暗に脅してるわけなんです。
さすがの岩村もバカじゃないからこれが分かるわけです。
バカなのは歴史k・・・(ry
すんごい大胆発言なんですよこれ。継之助はいつも面白いことを言ったりするのが得意で侍だとわからないようにほっかむりして村の祭りに参加したりするほどの人でした。そのくせ藩政改革やらせたらとびぬけた手腕を発揮するという、、、まぁ天才なんですw
だから最後の裾を掴んで・・・っていうのも実際には相当な計算があってなされてると思ってよいかなと。へりくだってるように見えて脅してる、、そんな感じでよいでしょう
余談に力入りすぎwww
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