---本編スタート♪---
会津武士道 第三部 明治維新と会津武士道
其の十九
前回から少し話が前後しまして、こちら
日光口
旧幕府軍である大鳥率いる伝摺隊と合流した山川は田島にて群議を開き、今市から進軍して宇都宮城を奪還する、という作戦を立てました
閏4月19日、こちらは随分早い動きでやや勇み足気味でしたが今市攻防戦が開始されました。しかし、西軍の必死の抵抗により一進一退が続きました
5月6日、今市奪還作戦が大々的に行われたものの、板垣退助らの奮闘により撤退を余儀なくされました
この後、東軍は山々を背に堅牢な陣地を構築し、ここで西軍の足を止める作戦に切り替えました。。。以降、日光口はこう着状態に入りました。。。
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奪還された白河城のほうは、これを重く見た東軍が何度となく再奪還作戦を行うのですが、西軍の軍備増強などにより再び落とす日は来ませんでした。。。
しかし、守勢に立たされた西軍は今市の軍編成により板垣退助が来るまでの6月下旬まで身動きが取れなくなったのでした
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5月に大きな動きがあったのは、やはり越後口の長岡でした
5月2日の小千谷会談が不調に終わり、早速長岡藩は動きます。越後口にいる東軍を集め、軍議を重ねました
防衛にやや不安のある長岡城へ敵が殺到する前にこれを叩き追撃して駆逐する、河井継之助はそう考えていました。西軍は、会津や桑名などを各個撃破しつつ北上してきており、長岡城の南の榎峠に集結していました
そして5月10日、、、
東軍は、榎峠に向けて出撃しました。総督は継之助
継之助は軍を二つに分け中央から主力をぶつけつつ別働隊を迂回させ横から奇襲をかけるという作戦を立案し、見事にこれを成功に導きました!
連携の足並みこそ乱れたものの、長岡での緒戦は東軍勝利で始まりました。。。
続く5月11日、西軍が猛攻撃してきたのですが、東軍はここを踏ん張り、朝日山は東軍が陣取るかたちとなりました
これを重く見た西軍の山県有朋は朝日山奪還作戦を立案し、5月13日、時山直八率いる奇兵隊が突撃してきましたが、東軍はこれを一蹴。時山は討ち死にしてしまいました
しかし、、、
一方、海岸沿いを北上してきた西軍の海道軍がついに長岡に現れました。長岡城の脇には信濃川が流れており、その対岸に陣取ったのです。。。
信濃川方面からの攻撃に弱いということを知っていた継之助は、
5月20日に長岡城の南側から信濃川を渡河し、海道軍と小千谷の本陣に奇襲をかけるという作戦を練りましたが、、、
5月19日、一歩はやく海道軍が動きました。
早朝、霧にまぎれて渡河に成功した海道軍は一気に攻め込んできました!このとき、東軍の主力は朝日山に出向いており、兵力的にも手薄な状態でしたからひとたまりもありませんでした
長岡城は落城し、藩主は何とか逃げ延び、会津へ向かったのでした。。。
継之助はこのとき肩を負傷したのですが、あきらめずに城から北上し、城からの敗走兵と朝日山にいた東軍主力を合流させ、加茂に陣取りました
そして新発田藩や米沢藩の援軍も集結し、3千を超える軍となって長岡再奪還に向けて機をうかがうという情勢になりました。。。
つづく
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