---本編スタート♪---
会津武士道 第三部 明治維新と会津武士道
其の二十一
白河口では、平方面に現れた西軍と合流し棚倉城、平城と落とされました。
そこから北上していくと、7月23日突如三春藩が裏切り西軍についてしまいました。三春の北にある二本松城では動揺が走りました!
なんといっても主力が須賀川方面(白河城方面)に出張っていたため、二本松城は手薄になっていたのです。防衛の前線と期待していた三春藩が裏切ったため、老兵や少年兵までもが出動することになりました。突然の出動だったため少年兵などは服が間に合わず兄などの服を裾や丈を縮めて無理やり着ていたそうです。。。
当然、降伏か抗戦か大激論になったわけですが、、、三春藩の裏切りを許さない家老は「死して信を守る!」と言って徹底抗戦と決まりました
7月29日
勇敢に戦ったものの圧倒的な兵力の前に、二本松兵は次々倒れていき、二本松少年隊もまた討ち死にしました。。。そして城内に西軍が攻めてくると、家臣らはみな切腹をして果て、、、ついに二本松城は落城しました
現在でも二本松城に石碑が残っています
なんじの俸、なんじの禄は、民の膏、民の脂なり。下民は虐げ易きも、上天は欺き難し
・・・・・
一方、越後口では、、、
東軍は長岡城が見えるところまで来ていました。このときの長岡藩士らの想いはどんなものだったのでしょう。。。きっとどんなことをしてでも城を落とし我が手に戻す、、、そんな想いだったでしょう。
河井継之助も同じように思ったのでしょうが、しかし彼はすでにその先を見据えていました
継之助は、長岡城を取り戻したあとすぐに南下していき敵の本営を叩いて殲滅もしくは国境まで撤退させようと考えていました
防衛にやや脆さのある長岡城を守るために、まず敵を国境まで追い払い一旦振り出しに戻す、そう考えていました
そして7月24日、
ついに長岡城攻略戦が開始されました!
そこでまたしても継之助の作戦が炸裂します!!
まず、主力を城の北側から前進していき敵の主力とぶつかります。戦線がそこでしばらく膠着しているとき、継之助ら長岡藩決死隊は城の北西にある八町沖(沼)を渡り、一気に城を落とす!、というものでした。八町沖とは大きな沼であり、ところどころが底なし沼になっていたそうです。
ここを夜半から朝にかけて渡りきった長岡藩兵は一気に城を攻め敵を追い払いました!これはもう長岡藩兵の士気によるものといって過言ではないでしょう。
しかぁし!!!
長岡城突入と同時に現れる予定だった東軍主力がまだ現れません。実はこのとき、西軍主力の奮戦により足止めをくらっていたのです。西軍は挟撃されても両面に展開し戦いました。
継之助は次の作戦に支障をきたす恐れを感じ、、、視察のため城を出ました
そして、、、
7月25日午後三時ごろ、、、
一発の銃弾が継之助の左膝下を直撃!!!
もんどりうって倒れた継之助は、すぐに野戦病院になっていた寺に担架で運ばれました。。。
その後、なんとか西軍を退けた東軍主力は長岡城に入城したのですが、継之助の次の一手は実行に移されませんでした
この時点で、東軍もまた損耗が激しく疲労もピークに達していました。それでも継之助がいれば次の作戦は実行されたのでしょうが、、、戦略の精神的支柱を失った東軍にはそれを実行するだけの指導力がありませんでした。。。
まずはここで一旦休息を取り態勢を立て直す、ということになりました
・・・・・
しかし、そのころすでに西軍別働隊が動いていました
7月25日
なんと!新潟港が西軍によって落とされてしまったのです!このとき新発田藩が裏切り先鋒を務めました。新潟港を守っていた米沢藩総督色部長門は戦死し、手薄になっていた新潟港はあっさりと敵の手に落ちました
東軍主力が長岡城に入ったのが26日ですから、そのときすでに新潟港は落ちていたわけです。。。
これによって、長岡城を取り戻した東軍ではあったのですが、西軍に周りを囲まれるという事態に陥ってしまいました。。。ここに継之助がいなかったことが大きく響きました
そして7月29日(新暦では9月15日)早朝、、、
西軍は霧に紛れて一斉に攻め込んできました。三方から攻められた東軍はひとたまりものなく、、、
長岡城は再び落城しました。。。
多くの東軍兵は、八十里越を通って会津に落ち延びていきました。。。
継之助もまた、担架に乗せられこの峠を越えていきました。。。
八十里 こし抜け武士の 越す峠
継之助は自嘲気味に詠んだそうです
つづく
長岡戦争 ~エピローグ・天才軍略家の系譜~
長岡藩に、高野秀右衛門という老兵がいました。77歳という年齢で銃をとって長岡城の防衛戦に参加しました。敵兵十数人を撃ち倒し壮烈な最期を遂げました
戦場ではよくある光景ですが、彼の孫こそ日本で知らぬ人はいない
山本五十六その人でありました
秀右衛門の実子貞吉もまた戦争に参加しており、会津へたどり着きかろうじて生き延び、戦後は長岡に戻ったそうです
父やまわりの親族から祖父のこと、そして継之助のことを聞いて育った五十六はいつしか継之助に心酔していきました
大東亜戦争において彼は、戦争を回避すべく首相に談判するなど和平に向けて懸命に取り組みますが、、、
戦争が長期化すれば日本が不利であるから、緒戦から存分に暴れて早期講和
という戦略眼をもって、
いざ開戦となると鬼神のごとき采配で緒戦敵を圧倒するという天才軍略家でした
そして、、前線視察のために訪れたブーゲンビル島上空で米軍の攻撃を受け戦死。。。
もう一人、
勇猛で鳴らす庄内藩の大隊長として長岡で大活躍した石原重道という人がいました
庄内藩士は継之助から大変信頼されていたそうです。余談ですが、庄内藩は奥羽越列藩同盟で最後に降伏したという武の誉れ高い藩です。
そして、彼の孫こそこちらも知らぬ人などいるはず、、、ない!(はずw)そう、誰もが知っている日本が誇る天才軍略家!
石原莞爾でした。
彼もまた身内から継之助のことを聞かされて育ち、いつしか心酔していったそうです。なんといっても莞爾の大学の卒論は「長岡城を中心とする戦と河井継之助」ですから相当なものだったのでしょう。
戦闘隊形が点から線に、線から面に、と着想したのはまさに河井継之助の戦術をヒントとしたわけなのです。
そして彼は後に、面から体に、つまり航空戦術へと発展させていくわけです。
大東亜戦争が終わると、見せしめのための東京裁判を行うべく戦犯さがしが始まるわけですが、A級の訴状である満州事変から大東亜戦争開戦までの共同謀議、という観点でいくと、莞爾はまさにA級戦犯!!
しかし!!
訪れた検察官の詰問に対して、「そこまで遡るならペリーを連れて来い!あいつがいなければ日本は開国する必要が無かった!」などと言って、検察をキリキリ舞にし、、裁判で論戦に持ち込まれたらマズい、と判断したGHQは戦犯から外してしまう、というとんでもないエピソードを持った人物でした
実現はしませんでしたが、五十六と莞爾は互いに会って歓談したいと言っていました。
まるで継之助の人生を追体験するがごとく戦場の華と散った山本五十六と、継之助のごとき雄弁で歴史に名を残した石原莞爾
まったく違う二人の天才軍略家ですが、どちらも継之助に似ている、と思うのはうちだけでしょうか。。。
PR