---本編スタート♪---
会津武士道 第三部 明治維新と会津武士道
其の二十二
8月16日・・・
河井継之助が亡くなった日です
新暦だと、10月1日の只見、そちこちの樹木が色づき始めた初秋でした
彼は最期まで武士らしく、遺体を火葬し遺骨を長岡に届けるように、と言って、自らを燃やす火を庭に焚かせました。。。
その炎を見ていた継之助は何を想っていたのでしょう。。。
そして、自分の遺骨を納める箱とは別にもう一つ箱を用意させて、もし西軍に見つかったらこちらを渡すように、と、最期の最期まで継之助らしい作戦を指示しました
享年四十二歳
結局、長岡藩主導の東軍の奮戦により、越後口の西軍は会津への到着が大幅に遅れ、会津に着くとすぐに小田山からの砲撃戦へ移ってしまい、活躍の場を白河口の軍に取られてしまいました。山県有朋はこれを悔しがり、自分が小千谷に着くまで留め置いてくれれば長岡での戦争は回避出来た、、と後年述懐したそうです。
まぁ、それは会津戦争も回避する、という条件が必要なのでやっぱり山県による会津征伐は成らなかったわけですが・・・
・・・・・
一方、二本松を落城させた西軍は、会津総攻撃一番乗りを目指して西進を開始しました
先に中山峠から進軍すると流布しておいて母成峠へと進軍しました。母成峠は比較的開けており大軍を展開するのに向いていたからです
母成峠には、大鳥啓介や土方歳三などが駆けつけていましたが、南北に防衛線が伸びていたため、母成峠に布陣したのはわずか800余名という手勢でした
これに対し西軍は3000余名という4倍近い数と、最新式の銃砲でした
8月21日、ついに母成峠東軍陣地への総攻撃が開始されました
しかし、東軍の死力を尽くした奮戦により、圧倒的な兵力差をはねのけ戦線はこう着状態となったのです。こう着状態は正午近くまで続きました
正午になると、濃い霧が発生し一時的に視界がさえぎられる、という事態に陥りました。西軍はこの機を逃さず、地元民の先導により東軍陣地の横や背後に迫りました。そして、霧が晴れると同時に攻撃を開始し、混乱した東軍は敗走せざるを得なくなりました。。。
かくして、母成峠は突破され、西軍はついに会津の東、猪苗代に到達したのです。。。
東軍は各所に兵を配置していたため、猪苗代城はわずかの手勢しかおらず、西軍が迫るとただちに会津へ退却しました。。。
西軍は、母成峠で1夜野営し、翌22日猪苗代へ到着。食料を確保し、ただちに戦略の要である十六橋へ向かいました
つづく(次回、10月8日)
PR