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会津武士道 第三部 明治維新と会津武士道
其の十六
1868年(慶応4年、明治元年)は、
閏年でございました。この年は、4月が2回ありまして、2回めの4月を閏4月と表記することになっています。
さて、4月の戦を経て、閏4月2日に会津藩は仙台・米沢両藩に
【会津藩家老連名嘆願書】を提出しました。これは降伏勧告を受けての正式な恭順と嘆願であります
これを受けて閏4月4日仙台藩は奥羽諸藩に対し、重臣会議を開くと通達しました
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一方、奥羽鎮撫使下参謀の世良は閏4月6日に会津攻略の拠点視察のため白河入りしておりました
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閏4月11日、仙台・米沢藩主導のもと開かれた会議において、両藩藩主連名で
【会津寛典処分嘆願書】、そして奥羽諸藩家老による
【奥羽諸藩重臣副嘆願書】が作成されました。これは新政府軍の攻撃対象になっている会津・庄内両藩を救済するため、そして奥羽での戦乱を避けるための嘆願書でありました
そして明けて閏4月12日、下参謀である世良・大山(秋田へ)不在という絶好のタイミングでこれを総督九条道孝に直に提出
ここで戦は終わる・・・・・はずでした
ところが!九条道孝は、同情心を見せながらも自分には権限がないという態度。。。
結局、嘆願書を預かるだけ、という事態になってしまいました
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ところかわって、、、
宇都宮城奪還作戦に失敗した大鳥啓介率いる旧幕府軍は西軍を撃破しつつ北上していました。そして日光までたどり着いたのですが、日光といえば東照宮(徳川家康が祀られている)、この神廟で戦をおこなってはならぬ、という僧らの説得により、旧幕府軍はここを撤退しました
そして、閏4月1日、藩境にある日向に到着したのですが、この時期和平交渉中の会津が旧幕府軍を受け入れるかどうか、非常に難しい選択となりました。。。旧幕府軍を取り込めば当然のごとく会津征伐の理由付けになるわけですからね。しかし、もし和平工作が失敗した場合は取り込んでおけば大きな戦力となるし、理念も共有できるわけです。。。
結局ここに会津藩家老の萱野権兵衛が訪れ、大鳥らの会津入りを許可することになりました。早速、五十里~山王峠~糸澤へ移動し、そこで会津藩の山川大蔵と合流。田島に入り、さっそく軍議が開かれました。
そこで、宇都宮城再奪還計画が練られ、彼らは再び南進していくことになるわけです。。。
・・・・・
さて、閏4月17日、白河での視察を終え北上してくる世良は本宮にて一連の和平工作である嘆願書の件を聞くことになりました。
そこでまたもや大激怒!!「裏で和平工作とは何事か!」という理屈のようです^^;
これによって会津征伐を止める、という和平工作は失敗に終わったわけです。。。
松平容保公はついに戦争を決意しました
そして奥羽諸藩も多くは会津に同情しておりました
仙台藩は、世良の異常なまでの頑なさに不信感を覚え、、、彼の身辺調査を開始しました。。。
そして、、、
閏4月19日、、、世良から秋田にいる大山にあてた一通の密書が仙台藩の手に落ちました。それは驚くべき内容だったのですが、、、
その内容とは!!!??
つづくw
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