---本編スタート♪---
会津武士道 第三部 明治維新と会津武士道
其の十弐
鳥羽伏見の戦いは、徳川慶喜の逃亡によって
大惨敗を喫しました
この責任を取って、「謹慎すべし」と進言した会津藩の神保修理は藩から切腹を命じられました
松平容保公は、これをかばう事ができませんでした。。。彼自身が主戦論者でありましたし、そして結果的にとはいえ敵前逃亡してしまったこと、徳川連合軍が完全敗北したこと、、、などから精神的にも相当参っていたようです。。。容保公は藩士に対し深く陳謝しました。そして家督を息子に譲って謹慎する事に決めました。今の彼にとってはこれが精一杯の誠意でした。。。
一方、、、徳川慶喜公は、、、
江戸を引き上げ謹慎し、事後処理を勝海舟に託しました
江戸攻めを前にして、西郷隆盛と勝海舟の会談が行われました。。。
江戸城の無血開城と徳川慶喜の保身について、です
新政府軍は勢いに乗っていましたから士気も高く、江戸を火の海にすべくいきり立っていました。だから江戸無血開城と慶喜の保身は取引材料にはなりえませんね
しかし二人の会談によって、
江戸は無血開城となり、徳川慶喜の命は救われました。。。
そして会津は、、、
許されませんでした
長州の会津への恨みが強い事、京での会津の活躍が危険視された事、いきり立っておさまらない新政府軍の矛先、、、
徳川慶喜も勝海舟も見て見ぬふり。。。元同盟相手の西郷どんも知らんぷり。。。朝廷への働きかけも成果なし。。。
会津は滅私奉公のあげくに、朝廷からも幕府からも捨てられ、、、
そして、、、
自らの名誉のために、新政府軍と戦う事を決意したのです!!
ついに、会津は自らの意思で動いたのです。
それは確かに、遅すぎる選択でした。
それは確かに、無謀な挑戦でした。。。
次回、栄光と凄惨の会津戦争へ
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