---本編スタート♪---
会津武士道 第三部 明治維新と会津武士道
其の二十九
9月14日
この日は、西軍大砲撃の日となりました
小田山からはアームストロング砲が火を噴きました。西洋の最新鋭兵器の威力がいかんなく発揮されたのです。
砲弾は小田山だけでなく各方面から撃ち込まれました。城中にいた山本八重子はのちに、
火天を頂き、火の海に立っているようでした
と語っています。
この砲撃の中、八重子は夫とともに果敢に応射!!一時小田山の砲台を沈黙させるほどの働きをみせました。
しかしさすがのこの反撃も、形勢を逆転するには至らず、お城には砲弾が雨あられと撃ち込まれました。そしてそれに伴い西軍の大攻撃が行われたのです。。。
が、それでも城は落ちませんでした
食料も銃弾も減り、負傷者は増すばかりの状況で、それでも城を支えたのは、
会津武士道でした。。。国のため、会津のため、容保公のため、、、信ずる大義のため自らの命を捧げ戦うこの生き様こそが会津の誇りでした。。。
9月15日
熊倉方面から転戦してきた萱野隊は、一ノ堰にて西軍と大激突しました。この戦いもやはりジリ貧となり敗れていくことになるのですが、城下町での戦闘が開始されて以来、萱野権兵衛は転戦に次ぐ転戦で北から南まで縦横無尽に暴れまわったのです。
佐川官兵衛と萱野権兵衛、、、
この二人の活躍もまた会津の籠城を助けたのでした。。。
この日、萱野が受け取った降伏勧告が松平容保の元へ届けられました
降伏して開城か、城を枕に討ち死にか、、、
養子であるにもかかわらず容保公は藩士から非常に慕われておりました。それはひとえに藩祖の遺訓を守るべく、「会津藩とは」と常に考え、実行してきたその実直さでした。
ですから、降伏勧告を受け取った彼の苦悩はわれわれには到底察することの出来ないものでしょう
すでに徳川幕府なく、朝廷から逆賊とされ、頼みの援軍もない。それでも自分を守るために命を捧げる家臣や藩子弟そしてその家族。町民らの家々は焼かれ、城下町には死体の山
薩長土肥の非道に屈すれば、会津の名折れ
生きて恥を晒すか、死して大義に殉じるか
容保公は、降伏を決断しました
極限の状態で、彼は「もう存分に戦った」という境地に至ったのでした。それは、人の弱さであり、優しさでもあるでしょう
彼を責めるものは城内には誰もいませんでした。「殿がそう言うのならば・・・」
ついに会津は降伏に向かうこととなりました。。。
そしてこの日、奥羽の雄藩である仙台藩が降伏しました。。。
今日、この平和な時代に安穏と生きていながら「さっさと城主が腹を切ればよかったのだ」などと暴言を吐く者が多く、落胆することが多々あります。
容保父子には介錯人も決まっており相当な覚悟で臨んでいたのですがそれはあまり知られていません。
現代人は、とかく「命が惜しい」と考えているのでしょう。西郷頼母を単なる人権派と捉え、松平容保を命惜しさに城に立て篭もったと決め付けるその低い認識、その者こそが自分の命が惜しいと常に考えているといってよいでしょう。だから、彼らもきっとそう考えたはず、と思っているのでしょう。
現代人は、かくも可哀相な世代です。。。
つづく