みなさんこんにちは^^
人間主義が、スターリンやポルポトや毛沢東のような災厄を招いたことは周知のとおりで、これは危険だということでとっくにケリがついていたはずでした。
ところが、価値相対主義がなかなか理解されなかったのもまた事実でして、
価値相対主義(単に相対主義と言う方が正解かも)
・この世界には絶対的な正義は存在していない
簡単に言うとこんな感じなんですが、要はオレの価値観とアンタの価値観はどちらも絶対的な正義ではないので、相手の価値観を寛容するべきである、ということ。
しかししかし、
これに対する
強烈な反論として、
①絶対的な正義が存在しないというのであれば、『絶対的な正義が存在しない』という価値も絶対的に正しいわけじゃないでしょ。ならば『絶対的な正義が存在する』という思想も認めるべきではないのか
②絶対的な正義が存在しないというのであれば、『相手の価値観を寛容する』という価値も絶対的に正しいわけじゃないでしょ。ならば『相手の価値観を寛容しない』という思想も認めるべきではないのか
③つまり、価値相対主義は自ずとパラドクスに陥るので成立しない
これがなかなかに強烈な反論でして、
特に、世の中ってなんていうかこう『強烈な正義エネルギー』みたいなもので強く時代が動くじゃないですか。
だからだと思うんですが、結局この価値相対主義はあまり世間に浸透することがなかったんですよね^^;
更に言うと、『天皇制反対』に代表されるような左翼側に吸い込まれる要素があって、日本ではどうも馴染まなかったんです。
アタクシ個人的には、『絶対的な正義は存在しない』と『絶対的な正義が存在する』は全然対立構図になってない、と思います^^;
『価値』というものが人智を超えて宇宙に存在しているのであれば『絶対的な正義が存在する』でしょうが、残念ながら宇宙は宇宙がただそこに存在しているだけでそこに何がしかの『価値』は存在しておらず、所詮は人間が人間として生きるために各々持っているに過ぎない。それが人それぞれ全然違う『価値』感を持っているというだけなので、そのいずれかに絶対正義が宿っているわけではない。
ということで、簡単に決着しそうな気がします。当時は宗教がまだまだ強い時代なので、神には絶対正義が宿っているという主張があるでしょうが、現代社会においてはその神が世界中にいっぱい全然違う神として存在していることが分かっており、そのどの神に絶対正義が宿っているとは言えないことは現代人で余程の宗教洗脳を受けていなければ理解できるはずです。
次に、寛容不寛容ですが、これも特に難しい議論は必要なく、寛容と不寛容が衝突した場合はどちらにも絶対正義が無いのでお互い妥協するほかないので、結局は不寛容側が降りるしかないわけです。
しいて言うならば、例えば不寛容側が10人いたとすれば、その10人の中では不寛容を貫くことが出来るということになります。まぁそれでその10人が幸せになれるかは知りませんがw
不寛容側は寛容側に干渉することが出来ないし、逆もまた然りで、寛容側は不寛容側に干渉しない。つまり、寛容側の10人は、不寛容側の10人が醜く諍い合う様子をボーっと眺めるしかないわけで。「あいつら常に喧嘩なw」という程度の反応でしょうけど。
というわけで、別にパラドクスには陥らないし成立しないとも思えませんね。
まぁ、勿論それが絶対に正しい!なんて思ってはいないですよ?!(ココ大事w
ただ、ここら辺の議論はなかなかめんどくさいのは読んでれば分かりますよね^^;
というわけで、あまり世の中では広まらなかったという現実はあります^^;
こんな感じで、今回は頭がこんがらがること間違いなしな内容でしたので、ここらへんで。
大事なことは、人間主義を価値相対主義で否定しきれなかったこと、人間はどうしても正義と言うエネルギーで強く運動してしまうこと、これが現代社会を蝕む『正義病』『論破病』に繋がっていってしまったことでしょう。
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