みなさんこんばんは^^
全然日記じゃないんじゃないんじゃないんじゃない!!??w
え~え~そうですそうですw書きたいことを書く!!
わがままだなぁ~・・・w
まぁ、こんな感じですわ
たまには日記らしい前フリをw
最近ちょっと気になってたインターネットレンタルDVD!に手を出してみましたwナニソレって?wええっとねぇ、インターネットでDVDをレンタルするんです・・・・まんま?w
レンタルってナニがめんどくさいってぇそりゃ返すのがめんどくさいよね^^;そんで折角借りに行っても、レンタル中とかだったりして、仕方なく大して借りたくもないのを借りちゃったりして^^;
そんなわけで、ネットで注文し、届いたら観てポストにストン、というものがいかがなものか、やってみましたw
今、結構メジャーなのは、DMMとDISCASですかね。他はよくわかんなかったのでこの二つを^^とりあえず最初の二週間くらいは無料お試しが出来る、とのことでしたので^^
サイトはヤフーの検索で簡単に飛べます^^で、検索とかしてみたら、なるほど~こりゃ使えるかもwランキングから検索まで出来ます^^
DISCAS(TUTAYA運営)のほうは、人名か作品名を選んで検索出来てある程度の在庫状況を確認できます。ただし、月8枚までの契約は予約が出来るのに借り放題の契約だと予約が出来ません。。。1日2回の在庫状況UPだそうですが、借り放題だと借りたい人気DVDは永遠に借りれないんじゃ。。。w
しかも、どちらのプランも料金はほぼ一緒。ん~~~予約できて8枚で2000円弱って、今の相場だと1枚200~300円だよねふつー。まぁ300円としても8枚で2400円分。なんかびみょ~だなぁ^^;
対して、DMMは、あまり検索機能は強くないし、在庫状況は予約入れないと分からない仕掛けだけど、とりあえず借り放題で予約も出来るみたいです。ただし、配送センターが関東じゃないらしく、、貸し出し~返却まで最速でも4日かかるんじゃないか?
5日に一回のペースで一回2枚ずつ借りたとして、12枚、3600円程度で月額2000円。う~~む、どうだ?w
で、実際にハウルの動く城を試したところ、どちらも貸し出し中です。。。もうすでに新作でもないんだが。。。
こうなると、マニア向けなのかなぁ、という印象があるな。例えばガンダムTV版を借りまくる!とかwそういう人向けかなぁ^^;
まぁ、在庫については、これからもっと改善されるでしょうから、もちっとやってみようっとw今んとこうち的にはDMMがオススメ。。。てか、DMMってPRIDEのスポンサーだしぃw
頑張れ!!DMM!!!w
---本編スタート♪---
さてさて、今日はこれから連休だしぃ、時間をたっぷり使って読んでくださいwほらそこ!ゲームなんかしてる場合じゃない!!w
会津武士道 第二部 其の・・
・・そのぉ、、そのぉ。。。w
今日は、第二部のシメですので、容頌公と玄宰の関係性について、歴史的解釈を書きとめておこうと思います^^
なんでそんなことを言うのかというとですね、
このきり色んな本を読んだのですが、どーーも本によって解釈がバラバラでなおかつ納得できるようなものもない。なら、うちがやっとことwごーまんだなぁ。。。w
では、おさらい
田中玄宰、先に成功した熊本藩の改革を見習い、改革案を作成、提出
↓
松平容頌公、これを拒否
↓
玄宰、家老の辞職願いを提出
↓
容頌公、慰留
↓
玄宰、再度辞職願い
↓
容頌公、これを認めるも、家老職の次席に玄宰のポストを残す
↓
玄宰、初代保科正之公の政治を勉強
↓
新たに改革案を提出、GOサイン、現場復帰
と、こういう流れであります。歴史家によっては、玄宰がヘソを曲げた、とか、ちょっとおいおいと思うようなことを平気で書いてる人もいるわけです^^;
では、真相はどうだったのか!!??ズバリ答えましょうw
容頌公はどんな思いで最初の改革案を拒否したのか、、ここでひじょーーーーーに重要な事を我々に伝えてくれてるんですね。
つまり、容頌公は、
仮に改革に成功したとしても、保科正之公から続く会津藩の伝統を壊しての成功には意味がない
と考えたわけです。今の日本人がバカなのは、改革改革といって今現在の事しか見ていない。だから方法が場当たり的になってしまい、結果成功するか失敗するかは運頼みになっちゃう、そういうところに気付いてないからなのです^^;場当たり的であるからこそ失敗した時みんな一斉にバッシングするというオチなのです。
先祖を敬うということは子孫に想いを馳せることと同義
これは何もうちが考えたことではなくて、小林よしのり氏の哲学なのですが、
正に容頌公はこれをここで考えたわけです。ふつーはね、改革っつったらばーっと突っ走るもんですよ。なんたって藩随一の秀才・田中玄宰の改革案なわけですから。
じゃ、玄宰はなんで家老を辞職したの?
それはよくよく考えると、簡単な事です。容頌公が初代藩主のことを持ち出す、ということは、おわかりですね?wつまりそれは、玄宰の祖先である田中正玄のことを持ち出すことに他ならないからです。
つまりそこで玄宰は、はっ!と気付くわけですよ。自分の改革は自分の先祖の偉業を否定する事なのか!?と。
そこで玄宰は、ただただ改革を考えた自分を見つめなおし、確かにただ新しくする、というだけではいけないんじゃないか、という考えに到ったのだと、うちは考えます。
であるからこそ、今までの自分を恥じ、辞職してもう一度勉強しなおす、という選択をしたのでしょう。
容頌公はきっと家老職のまま勉強する事が出来るのでは?という思いで慰留したのだと思いますが、玄宰の覚悟を感じとってこれを認め、そして現場復帰出来る道筋をつけた。
そして、玄宰は見事に正之・正玄時代の政治哲学を身にまとい、新たな改革案を作成、これが認められる
これが、うちの歴史解釈です。
まぁ、いっちゃなんだが、これが正解ですよwあっはっはっはっはwwwザマーミロ歴史家どもめ!w
ご~~まんだなぁ( ̄- ̄;;
・・・コホン
さて、それではうちの考察を頭に入れて、
第二部ラスト ~エピローグ~
玄宰の晩年、ロシアは江戸幕府に使者を送り開国を要求します。幕府は当然これを拒否したのですが、それを不服に思ったロシアは、樺太に現れ略奪行為を行う、という事件がおきます。
これを重く見た幕府は樺太の警備を東北諸藩に命じる事になるわけですが、ここで田中玄宰は、自ら名乗り出てこの任務をお受けしましょう、と進言した、と伝えられています。
保科正之公が残した家訓(かきん)にこのような一節があります
一、 大君の儀、一心大切に忠勤を存ずべく、列国の例を以て自ら処るべからず
(我が会津藩は、他藩より先んじて幕府(または天皇)に忠勤せよ)
そして会津藩は樺太警備を命じられ出兵することになりました。この時既に玄宰は亡くなっていたのですが、出兵した藩士たちは玄宰への想いを胸に抱いていたことでしょう。
結局、ロシア人は現れず、撤収となったのですが、天候悪化により多くの兵が亡くなりました。
宗谷岬にはこんな碑があります。
たんぽぽや 会津藩士の墓はここ
(元県知事松平氏作)
第二部完
第三部、幕末の会津とその後の会津武士道
は、またいつかの機会にw