みなさんこんにちは^^
今日はうってかわって快晴・・・雪がない・・・(--;
今日は待ちに待った節分でございます。
全国1千万世帯のおとぉさま~~~!!ついに来ました父親Day!!
今日は一年で最も楽しい日だぁねぇ~^^b
日頃の恨みハラシテヤルw隣でギャングどもが騒いでますが、、、
ふっふっふ。。。
何も知らんとのん気なもんだねぇ( ̄ー ̄)v
---本編スタート♪---
(引っ張りすぎとか言われたのでちょっと長くいくよw
会津武士道 第三部 其の四
さてさて、、会津藩の寛政の改革は一体どんなものだったのでしょうか。これが実に素晴らしい!
まず彼は軍の改革を行います。
さすがに太平の世の中だけあって形式に拘るあまり実践からは程遠くなっておりました。そこで、河陽流から長沼流という集団戦法として当時最新の軍学にきりかえます。
最小戦闘単位を10人としてこれを【什】とし指揮するのを什長、半隊を【伍】とし指揮官を伍長としました。
最近話題になった日新館の【什の誓い】はこの軍制に由来すると言われています。
そして、先鋒、中軍、左翼、右翼、殿軍(しんがり)、小荷駄というように陣を構成して、本陣のある中軍以外の陣を1年ごとに持ち場交代させました。これがあったため、後に京都守護職を引き受けた際、すばやい陣編成が出来たんですね。後に生きる素晴らしいアイディアでした。
そしてもう有名になった感のある
教育改革
享和元年(1801)鶴賀城の西手7千坪に会津藩校日新館を建て、
10歳からの入学義務付け
試験による昇級(逆にこの試験に受からないものはいつまでたっても卒業できなかったそうです^^;)
容頌公がコツコツ書き上げた「日新館童子訓」
そしてそして!!なんと!!!15歳以上には給食制度!!!これ、日本初ですねw
よく言われるのが明治時代の山形県ですが、時代がじぇんじぇん違うwさすが会津藩!w
そして、藩校より下、藩士の子弟が6歳になると組という組織に所属する事になります。そこで有名な什の誓いを徹底して叩き込まれるわけですねw
什の誓い
年長者の言ふ事に背いてはなりませぬ
年長者には御辞儀をしなければなりませぬ
虚言を言ふ事はなりませぬ
卑怯な振舞をしてはなりませぬ
弱い者をいぢめてはなりませぬ
戸外で物を食べてはなりませぬ
戸外で婦人と言葉を交へてはなりませぬ
ならぬことはならぬものなのです
よく、7番目の「戸外で婦人と言葉を交へてはなりませぬ」だけは今の時代に合わない、とおっしゃる方がいますが、はっきりいっておバカさんですね^^;もうちょっと頭をひねりましょうw
当時の会津藩士にとって戸外で女性とお喋りをする、ということは、現代でいえば、外で抱き合ってチューするのと同じことですwいや、もっとヒドいなきっと。外で裸で抱き合ってチューしてる!うんうん、それくらいのことでありますから、それを禁じるのは不思議でも何でもない。
そして、これを守らなかった場合、軽いものではしっぺ、重いものは絶交となり、そうなると親と一緒に組長のところへ詫びに行かなければならないのでした。(そんなわけで、白虎隊のドラマで、戸外で女性と話した隊士はみんなからしっぺを食らうわけですw)
身分制度の徹底
紐制襟制を導入し、上士、中士、下士を更に羽織紐や半襟の色によって厳しく身分を分けました。会津藩士は11階級でした。同時に、能力や実績のある人間を取り立ててバランスを取ったようです。
いい加減長いので、続きは明日wここまでは藩士の生活の規律化ですが明日は実際の財政改革です。
ここで、すごぉく重要な事は、玄宰は、風儀を正す事と財政を建て直す事をセットで考えた、ということなんですよ^^手前味噌ですが、うちがよく徴兵制導入すべし!って騒ぐのは、玄宰改革の真髄と一緒なんです^^
玄宰がセット理論を持っていたことは知りませんでしたから、たまたま一緒の考えだ、ということは、うちに改革させれば日本は素晴らしいくn・・・いやいやいや、おごれるものひさしからずや、ですねw
つ・づ・くw