みなさんおはよーございます^^
今日も晴れそうな予感!(*_*キラリ
元気にいってみましょー♪
次から次へと「捏造」があるわあるわwまぁ、ふつーに考えて何か一つを食べてそれがきちんと消化されたとしてもその物質が身体に働きかけて体質が改善する、なんて思わないほうがいいですねw
そういった機能を持つには「薬」くらいきょーれつな物質じゃないといけないので、とーぜん副作用がある、というわけですはい^^;
副作用のない薬が効かないのと同じように、食材もそれ一つで何かに効くなんてことはまぁないだろうね^^;
5色の食材を食べる事、朝きちんとカロリーを摂取すること、夜なるべく控える事、日本食を中心にしつつ塩分に気をつけること、
これが肝要かと^^;
---本編スタート♪---
第二部開始
軽くおさらいしときますと、
家光公の異母弟保科正之公と家老田中正玄(まさはる)による会津藩の礎がありました。正之公の考える
尊王佐幕(天皇を尊敬し幕府を支える)
は家訓となって代々伝えられる事になりました。
しかし、政治というのは難しいものでして、
江戸時代、幕府は鎖国(といっても貿易はしていた)していた、つまりこれは内需拡大政策なわけです。
そのおかげで、新田開発が進み全体の米収穫量が上昇したために、米価は下がる傾向になっていました。会津は盆地でなかなか新田開発のしにくい土地柄でしたので、収入はどうしてもジリ貧でした。
三代目藩主・正容公のとき、会津藩は幕命により松平性を名乗るようになり、御三家に次ぐ地位になってやっと公式に徳川一門となったわけですが、
しかし財政は厳しくなる一方で、ついにこの時代、会津藩も借金をすることになってしまいます!さぁ大変だ
ここで、会津藩は奇策として、藩札を発行するのですが、、、
これが裏目にw
藩札というのは確かなバックがついて初めて信用が取れて物価が安定するのですが、それがないためにどうしても市場がこれを嫌い、むしろ物価が上がってしまう、という事態になりました^^;そしてますます藩の財政赤字が増えてしまうという事態になりました。
この案を出した長井長九郎は切腹させられてます。
そして法に厳しい会津藩でありましたから、年貢米については厳しく取り立てました。農民は疲労してしまい、ついに農民一揆が起こってしまいます。これを収めるために、藩は農民側の主張である年貢米の半減を了承してしまったので更に大変に。
そしてそして、、、
天明の大飢饉!!!天明2~8年まで続く異常気象
天明3年、岩木山噴火、浅間山噴火、ラキ火山噴火により冷害が続きました。
幕府は社倉米を放出、民家の鍋の中身まで調べたということですから相当念入りな調査を行ったようです。しかし、そもそも収入がなくなっちゃってるわけですから、台所は火の車!!
そこにあの名門田中家から田中玄宰(はるなか・当時玄堅)が現れます!!
さぁ、彼が行った藩政改革とは一体何なのか!!?そしてその結末やいかに!!??
次回へ続くw