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パール判決書 第三部 証拠及び手続きに関する規則
その3
西園寺・原田回顧録
本審理の終わり近い頃、この文書からの数多くの抜粋が証拠として提出された。これは本審理に、明示した範疇の双方に属する伝聞証拠、あるいは、おそらくそれにも劣る種類のものが証拠として提出されたということを意味したのである
と言っているように、この文書自体非常に信憑性に掛けるものであったわけです。
更に、伝聞証拠というだけでなく、
証人として出廷した近衛夫人(近衛文麿の弟の夫人)によれば、
1.原田男爵は草稿または記憶により証人(近衛夫人)に口述したこと
2.承認は速記したこと
3.証人は速記した文書を日本文に書き改め、これを原田男爵に差し出した
4.男爵はときどきこれに訂正を加え、これを西園寺公に示した
5.西園寺公もときどき訂正を行った
6.訂正を加えた文は証人に渡され、証人は訂正に従って全文を更に清書した
7.この清書した日本文は、さらに里見という者の手によって校正された
8.訂正を経た日本文を再度証人が清書した
口授にもとづいて書きとった記入事項は「原田男爵が言及しているところが現在のことであるか、過去のことであるか分からなくなる」ような状態であり、また「事実ある文章の主語と述語を定めることも、さらに誰が何を言っているかということも困難であった」のである。
速記文を翻訳する場合、証人は「主格がどこにあるかということなどについては、かなり苦労」した。そして証人としては「一番正しいと思うような方法をとって、最善を尽くした」のである。
速記からの翻訳には相当な困難が生じると言う事は言えるでしょうね。更に伝聞の訂正につぐ訂正。。。もはや誰の目にも分かる証拠能力の無さ加減なわけでw
そして大事なのは提出された時期なんですが、
この文書は弁護側がその段階を終了してから、初めて証拠として提出されたという事実に注意すべきである。これは反駁段階における証拠という仮想の元に提出されたのである。
反駁、つまり「法定において、弁護段階の終了後、検察側が提出しうる追加証拠」のことなんですが、
法定はこれを「反駁証拠」として受理する事を決定したわけです。
が、すぐにこれらの証拠が厳密な意味における反駁の証拠としては種々の難点が生じ、
結局これを受理しつつも「反駁」という言葉は正しく当てはまらないということが明らかにされたんです。「提出された証拠を検討するにあたっては、ただ二つの考査標準があるのみである。すなわちこの証拠に証明力ありや、重要性ありやである」ということなんだそうです。
なんだか、理由は後付けで兎にも角にも受理したいってだけじゃねーかと。。。
で、今日はここまで。
ここら辺は、さらっと事実関係の確認という感じで。
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