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会津武士道 第三部 明治維新と会津武士道
其の三十一
明治元年9月22日(新暦で11月6日)
朝、鶴ヶ城城門に、白地に降参と書かれた大きな旗が掲げられました
これにより全軍戦闘停止命令が出され、ついに会津は降伏することとなりました
城下は焼かれ、遺体は放置され、悪臭が漂っていましたが、空だけは静かに秋の景色を映していました
早速行われた開城式では、赤い毛氈に洋装で椅子に腰掛ける西軍司令官(板垣退助ら)に袴姿で土下座した容保公が謝罪文を提出するという屈辱的な情景となりました
藩士らは、この赤い毛氈を切って持ち去りました。これは泣血毛氈と呼ばれ、無念とともに生涯持ち歩いたそうです
この一ヶ月に及んだ籠城戦は、第一に鶴ヶ城が堅牢な城郭であったこと、第二に人の精神力が戦争に大きく影響を与えたこと、を後世に残しました。籠城が一日長引くごとに死傷者は増えましたが、それと引き換えに会津武士の意地が緋色の残光となって歴史に名を残すことになったのです
会津は破れ、続いて25日には庄内藩が同盟最後の降伏となり、奥羽越列藩同盟による戊辰戦争は終わりました
第三部 完
明治2年5月
政府から萱野権兵衛に切腹命令が出されました。会津戦争の首謀者を、田中土佐、神保内蔵助そして萱野権兵衛としたからです。
すでに、田中と神保は会津戦争中に自害して果てておりましたので、残った萱野が責任を取る形となったのでした。
切腹当日、容保公と照姫からの親書を手渡された萱野はこれを武士の誉れとし、顔色一つ変えずに全ての責任を一身に背負って見事に切腹して果てました
享年41歳
そしてエピローグへ