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10月8日 くもり

2007-10-08-Mon 08:03:38 │EDIT

みなさんおはようです^^

一昨日長岡に日帰りで行って来てました。マサやんは思ったとおり、青黒い(!)顔に細身のだーくえr・・・じゃなくて、イイオトコでしたな(^-^)b
ていうか、若い!><b本人の希望によりSSは掲載不可だそうでwいずれモザイクつきで。。。


さてさて、では予定通りさっそくいってみましょう!





---本編スタート♪---




会津武士道 第三部 明治維新と会津武士道

其の二十三




8月21日母成峠が落ちた日、
鶴ヶ城城下町にある会津藩士柴佐多蔵邸では五郎(10歳)が面川沢の叔父の家に栗拾いに出かけていきました。。。

 

8月22日
猪苗代を占領した西軍はすぐさま十六橋を目指しました。十六橋は猪苗代湖から流れる日橋川を渡るための橋で、ここで手間取ると会津入りが大幅に遅れることになるからです

一方、会津では、21日の母成峠落ちるの報を受け、ただちに十六橋を壊し敵の進軍を止めるよう命令が下されました。そして、ついに白虎隊に出陣命令が下されたのです。

白虎隊は15~17歳の藩子弟からなる隊でしたが、出陣命令に臆することなく喜びの声をあげたそうです。彼らは無知だったわけではなく戦況は分かっていましたが、国(会津)のために戦うことを武士の誉れとして喜んだのです。
しかし、急な出陣のため、衣服が揃わないという事態に陥り、ある者は兄の衣服を慌てて詰めてきたりしたそうです。

白虎士中一番隊は藩主喜徳公の護衛のため城内待機。士中二番隊は容保公護衛のため滝沢本陣へと向かうことになりました。
午後1時すぎには容保公とともに出陣し、佐川官兵衛も出陣しました。そして士中二番隊は戸の口原防衛のため出撃しました。十六橋へは奇勝隊が向かい、その他老兵による遊撃隊も編成され出撃しました

夕刻、、、十六橋では、橋の取り壊し作業が開始されました。。。しかし、なんとそこに西軍が到着してしまったのです!
西軍は会津兵を見つけると橋を守るべく慌てて銃を乱射しました。会津兵はあっという間に殲滅され結局十六橋は破壊できず、西軍に占拠されてしまいました。ついに、西軍が会津入りしたのです

そして、到着した白虎隊ら会津兵と西軍は睨み合う形となり、そのまま夜を過ごしました。白虎隊は大きく分けて2つの班に分かれて行動していたようです。夜になると雨足が早くなり、少年らは寒さと空腹を堪えて敵の攻撃に備えていました。見かねた隊長日向内記が食糧確保のため戦列を離れたのですが、途中道を見失いはぐれてしまうという事件が起こりました。



8月23日 
午前4時、
まだ未明の中ついに西軍による攻撃が開始されました。東軍、渾身の奮戦も敵の最精鋭部隊による攻撃にかなわず退却。隊長不在の白虎隊は篠田が指揮を取り、敵を引き寄せて銃撃するなど活躍も見せましたが、多勢に無勢。怪我人が続出するとやむなく撤退を決断します。そして闇夜の中、山中をさまよい途中何人もはぐれつつ鶴ヶ城に向かって退却していきました。途中、滝沢峠のふもとに通じる疎水の洞門に辿り着き、ここをくぐって鶴ヶ城を目指すことにしました。。。

西軍は、散らばって撤退していく兵をあまり深追いせず本道からまっすぐ強清水へと向かいました。ここに布陣していたのはあの鬼官兵衛こと佐川官兵衛だったのですが、戸の口方面から殺到する撤退兵を統率しきれず、混乱の中西軍と遭遇したためここの防衛を放棄しやむなく撤退していくことになりました


午前8時ごろ、
戸の口原突破後たいした反撃もなく西軍は滝沢峠に到着しました。そして大砲や銃を放ちながら一気に峠を下ってきたのです。
滝沢峠のふもとには容保公が陣取る滝沢本陣がありましたが、ここにも撤退兵が押し寄せさらに西軍の銃弾も撃ち込まれはじめました。
容保公はあくまでここで踏みとどまるべしと主張しましたが、家臣らの説得に会い、やむなく城内へ退却することになりました。

途中、養蚕神社付近にて、ここまで同行してきた桑名藩主であり実弟の定敬に対し「米沢藩への援軍要請」を命じ一路米沢へ向かうよう指示しました。定敬は容保と一緒に戦うことを望みましたが容保公は頑として聞かなかったそうです。定敬はここで容保公と別れ会津を後にしました

その頃になってようやく、お城の鐘衝(かねつき)堂から警鐘が鳴らされました
遅いと言われれば遅すぎる警鐘でした。城下町は逃げ惑う人々で大混乱となってしまったからです
そしてこの混乱の最中、、、藩士家族の婦女子らは、あらかじめ決めておいた行動をその通りに実行しました。。。

高遠から続く名門池上家の四男、池上四郎は12歳という年齢で籠城戦に参加しました


午前9時過ぎ、
容保公の後を追うような形で西軍先鋒は城下町を鶴ヶ城に向かって進軍してきました。鶴ヶ城北側の甲賀町口、馬場町口を守るは白虎士中一番隊と老人組でした。老人組というのは正式な隊ではなく、玄武隊(50歳以上)すら卒業している老人たちが自主的に集まって編成された隊でした。「余命いくばくもないのならお国のため・・・」と槍を片手に集まったのです

かたや手慣れた槍を持つ老兵、かたや銃を構える白虎隊
この戦乱の中、なぜか爽やかな情景が見えるのは気のせいでしょうか
そして、彼らは大いに奮戦し、撤退兵を収容しつつ、板垣退助率いる土佐藩やアームストロング砲を撃ってくる肥前藩相手に一歩も引かず二時間もの間ここを守りました


さて、、、藩士家族婦女子らの「あらかじめ決めておいた行動」とはどんなことだったのでしょうか。
これは大きく2つに分けられます。
まず1つは、入城して籠城戦の手助けをしようとした人たち。彼女たちは飯の炊き出しから負傷兵の手当て、更には弾薬の製作や砲弾を撃ち込まれた現場に行き消火作業など、とんでもない大活躍を見せて籠城戦を支えました。彼女らの働きがなければ籠城はもっと早く瓦解しただろう、と後世の史家は評価しています。

会津藩きっての軍略家山川大蔵の家族は前日からすでに籠城戦の準備をしており、鐘が鳴るとすぐに城に入りました。大蔵の弟健次郎は当時15歳で白虎隊に一度編入されるも年齢制限が16歳に引き上げられ一旦は除隊。しかし籠城戦に際し再び白虎隊に編入され戦ったそうです。

同じく、城に入り戦いにはせ参じようとしたものの城下大混乱で城に入れなかったものもいました。中野コウやその娘竹子(22歳)ら20余名の婦女子は照姫が坂下にいるとの情報を得て護衛のために向かいました。

そしてもう1つは、、、
自決でした。。。自決した彼女らは、籠城に際し兵糧の消費を抑えるため、そして生け捕りにされ辱めを受けることを嫌ったのでした。。。

筆頭家老西郷頼母の妻は、頼母が非戦論で藩の存続を第一義としていたことから、それは個人的な保身にあらず、ということを証明するために自決の道を選びました。まず九歳の娘を介錯し四歳の娘、そして二歳の娘も介錯しそして自害しました。婦女子9名、一族12名合計21名がここで自害して果てました

柴家では、五郎の母が鬼となって祖母を介錯、そして兄の妻、姉、妹(七歳)みな自害して果てました

このような形で四十余家の藩士家族が自決、婦女子だけで230余名

現代の価値観では全くもって信じられないことですが、会津武士道は男女の別なく存在していました。現在、武士道ブームと言われていますが、一家皆果てて国に殉じることが出来なくて何が武士道か。。。死を覚悟して乾坤一擲負け戦を戦い抜かずして何が武士道か。。。と、自戒を一層強くさせられる、それが会津武士道なのです


同じころ、
長州藩は薩摩と土佐の一隊とともに城の背面である天神口に向かいました。鶴ヶ城は大川を背に本丸が築かれているため天神口から攻め込もうとしたのです。
ところが!そこに三の丸南門から小室金吾左衛門ら90名の槍隊が敵の銃弾をかいくぐり吶喊(とっかん)してきたのです!おびただしい数の死傷者を出しながらも城内からの銃撃と合わせて敵に攻め込み、ついには後退させる事に成功しました


午前11時ごろ、
ついに白虎隊と老人組が守っていた甲賀町口が破られました。敗走する白虎隊を尻目に土佐藩は一気に760メートルを駆け抜け北出丸の前面まで展開しました。

そこに一人の老兵が槍を持って躍り出てきました。一人を槍で突き伏した後銃弾を浴びて倒されましたが、そこに今度は一人の少年兵が颯爽と現れ槍を構えました。土佐兵は何とか捕らえようとするも気迫凄まじく近寄ることすら出来ません。やむなく銃を発砲し少年は倒されました。
老兵は甲賀町御門番佐藤与左衛門(74歳)、少年は与左衛門の孫で勝之助(14歳)でした。。。

この時、城中には玄武隊ほか少数の兵しかいなかったのですが、ここで会津女子が登場します!山本覚馬の妹、山本八重子24歳が銃撃隊とともに狭間塀から猛烈な銃撃を加えたのです!八重子は籠城戦に備えて200名の婦女子を従えて堂々と入城した豪傑でした。この銃撃で西軍は被害甚大、八重子ら銃撃隊は北出丸を防ぎ切りました

しかし、そんな中、郭門を守っていた家老田中土佐と神保内蔵助はもはやこれまでとともに自決しました。自決するちょうどその時退却してきた白虎隊がそこに現れたので、二人は白虎隊にも自決を勧めたのですが、まだ藩主護衛の任があるのでと言って断り、悲しむ間もなくそのまま去りました。


この日、母からの指示で帰宅しようとした柴五郎少年は途中逃げ行く人々とすれ違いながら鶴ヶ城城下町へと向かいました。城の南の北御山から見た城下町は紅蓮の炎と黒煙に包まれておりやむなく引き返すことにしたのですがそのときの事を、

口惜しきことかぎりなく、情けなきこと忍びがたく、母上、母上とさけびつづけ、地をたたき、草をむしりて号泣す

と、後年回想しています


その頃、、白虎士中二番隊の篠田が率いる20名は洞門をくぐり抜け、滝沢本陣のすぐそばの飯盛山に辿り着きました。暗がりの中蝙蝠(こうもり)を避けわずかな光を頼りにようやく辿り着いたそこで彼らが見たものは、、、

紅蓮の炎に包まれ、黒煙に覆われた城下町でした。。。鶴ヶ城の方角も炎に包まれており、彼らは城が落とされたものと思いました。その悲しみはいかほどのものだったでしょう。そして彼らはこれ最期の時と皆自決しました。。。しかしなんということか、実はそのとき城はまだ落ちておらず、城の周りが燃えていただけだったのです。。。

この白虎隊の悲劇は、自決した20名のうちたった1人蘇生した飯沼貞吉によって後に伝えられた事実です。
しかし、今日この白虎隊を無駄死にと言う人はいません。そしてそれは単なる同情ではないでしょう。国に殉じた純白の魂を見せ付けられ、ただただ言葉を失うばかりなのです


午後2時ごろ、
この頃になると、背炙り山方面から撤退してきた会津兵が入城してきたため、ようやく防御が強化されました。

そして西軍はこの日の攻撃をついに諦め、郭外まで撤退しました。


しかし、ここから西軍による略奪行為が始まりました。
家や蔵に侵入し、ありとあらゆる財を略奪しました。逃げ遅れた婦女子らは捕らえられ辱めを受け、辱めを受けた後殺されるものもいました。男子も殺されるもの多数、城下町は分捕り合戦の様相を呈しました。所有権を巡って西軍同士で小競り合いまで起こる始末で、城下町は略奪、虐殺、強姦、放火と、阿鼻叫喚の坩堝(るつぼ)となりました。。。

夜になるとそちこちの町屋で酒宴が催されましたが土佐兵の酒宴には、大皿の上に昼間倒したあの佐藤勝之助少年の首が置かれ、酒の肴にされました。

 愉快極まるこの夜の酒宴 なかにますらおの美少年

と、みなで大合唱したそうです。。。

 

8月23日は、新暦で10月8日、、、そう、これは過去の今日の出来事なのです。。。

 

つづく



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