ーーー本編スタート♪ーーー
よく仏壇にお供えをしますよね?
お供えするものっていうのは割と、
自分が食べたいもn・・・じゃなくてぇw、故人が好きな食べ物だったりするわけです。
そのとき女性を観察していると必ず、仏壇に向かって喋りかけるんですね。「ほら、これ食べたかったでしょ?」とか。
そこで『故人と喋る能力』を持った人は必ず手を合わせて目を閉じてしばらくいるんですね。ここでちゃんと喋ってるb
ところが能力がない(と思ってる)女性は、すぐに席を立っちゃうんですwここが女性の分岐点で、僕に観察されてますw「ああこの人喋れないんだなw」とか。
だから必ず僕はそこで「ちゃんと返事聞いたほうがいいんじゃないですか?w」と言うことにしてます。もうほぼ喋れる状態にあるので、後は背中を押してあげればいいだけですからb
やってみると「ありがとうって言ってた」とか「いやオレこれじゃないやつがよかったって言ってた」とか「ニコニコして喜んでるようだった」という感じで、すぐに喋れることに気付くわけですb
こう言うと、チンチンの付いた動物は必ず「それは虚像だ妄想だ」と突っかかってくるんですが、、、
待避所の博識な読者諸兄であればもう分かりますよね^^;
それが『虚像や妄想』なのか『自分の中で生きている故人の魂』なのか厳密には『ワカラナイ』
『ワカラナイ』場合は?
そうです、
リスク管理です。
リスク管理の話って随分前にしましたよね、閻魔大王の話。
死後の世界があるかないかは『ワカラナイ』ので、『死後の世界は無いと信じて好き勝手に生きる』べきか『死後の世界があると信じて良い行いをして生きる』べきか。
これがリスク管理です。
あると信じて良い行いをして生きていた場合、死後の世界があればそれは問題なし。死後の世界がなかったとしても自分は消えるだけなので問題は起きません。
ないと信じて好き勝手に生きてて、死後の世界がなかった場合は勿論問題なしですが、実は死後の世界があった場合は大問題が発生します。なんたって「はっ」と気づいたら目の前に閻魔大王がいるんですからw
つまりこの4つの未来のうち1つだけ、ないと信じて好き勝手に生きて実はあった場合にのみ問題が発生するので、あると信じて生きたほうがリスクがないということになります。
さてこれを故人の話に戻しましょう。
故人の魂があると信じて、あった場合は問題なし。なかった場合も問題はありませんね。
ところが、個人の魂がないと信じて、なかった場合はそのまま問題ないんですが、あった場合は大問題です。
そりゃアータ、その故人の魂の気持ちにもなってみてくださいよ。折角その人の宇宙に留まったのに、当の本人が取り合ってくれないってんじゃ、いくらなんでも悲しいでしょ^^;これからどうすんのよ、その人の宇宙でその人に否定されちゃった魂は今後何をしてたらいいんでしょうか。。。
そしたらそのうちふてくされてもういいよって感じで、その人とはもう喋ろうともしなくなるでしょうね・・・
なんと勿体ない!
あるってことにしといてもなけりゃないで特に問題もないんだから、あるってことにするほうがリスクが無くてより良い人生になるんですが、、、
チンチンの付いた動物は唯物論者だからワカンネーんだろうなぁ・・・w
大好きだったじーちゃんばーちゃんが、なんか空から見守ってくれているような感覚とか、迷ってるときに故人がちょっと背中を押してくれたような感覚とか、、、よほどの孤独な人でもない限り誰もが一度は経験してて、それをなぜか唯物論で『そんなの妄想』の一言で片づけちゃってる
それをちゃんと元に戻そうというのが、
お盆システムなんだとアタクシは思いますb
というわけで、今年のお盆はお供えをするときに
自分の食べたいもnじゃなくてぇw、故人の食べたいものをお供えしてですね、ぜひ「アンタが食いたかったもんを買ってきたぞコンチクショー」と言って手を合わせて目を閉じて、、、
その人が何というかどんな表情をしてくれるかよ~~~く観察してみてくださいb
ちなみにどうでもいいことですが、お供えというのは本来は故人にあげるものじゃなくて仏さまに「これでどうか一つよろしく!何卒!」ということなんですが、、、なぜか日本人は
自分の食べたいもnじゃなくてぇw(しつこいw
故人の好きだったものをお供えする人が多いようですbそうです、つまり実はもともと喋る気満々だってことなんですねb
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